クリストフォロ・ネグリ
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パドヴァ大学で憲法学の教授を務めた[1]。 1848年の混乱を逃れてピエモンテ州へ赴き、そこでヴィンセント・ジョベルティによって外務大臣の下におかれた領事部門のひとりに任じられた。この地位は、マッシモ・ダジェリオによっても追認された。1859年以降、彼は政府の様々な職に就き、その間に地中海地方各地の数多くの都市を訪れ、イタリアの政治経済関係の発展に寄与した[2]。
1867年、ネグリはイタリア地理学会の創設者のひとりとなり、設立当初の4年間にわたって会長を務めた[2]。コルベット「Magenta」が太平洋に派遣された1867年の遠征について、ネグリは、真剣な探険航海を行うにしては、遠方まで向かうのに武装など積荷が重過ぎ、地図類や書物、科学的観測機器なども不足していると論評した[3]。1874年から1875年まで、ネグリはハンブルク駐在の総領事を務めた[2]。引退後も、ネグリは国を代表して活動し続けた。1876年にはベルギー王レオポルド2世が主催した国際アフリカ連盟の創設会議に参加し、また、パナマ運河の建設に関する会議や、1884年から1885年にかけてヨーロッパ列強によるアフリカ分割をめぐって行われたベルリン会議にも参加した[2]。
1880年、ネグリは再びイタリア地理学会会長となった。彼は探検家ジャコモ・ボヴェを派遣して、南極大陸を周航させるという計画を打ち出した。しかし、新たに成立していたイタリア王国は、その費用を賄うことはできなかった[4]。1890年、ネグリは上院議員となった。彼は、1896年にフィレンツェで死去した[2]。
ゼムリャフランツァヨシファの島々のうち、ホール島とマクリントク島の間の狭い海峡であるネグリ海峡 (英語: Negri Channel) は、クリストフォロ・ネグリの名に因んだものである[5]。