クリス・アダムス

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リングネーム "ジェントルマン" クリス・アダムス
"ジュードー" クリス・アダムス
"ブラックベルト" クリス・アダムス
マスクド・アベンジャー
本名 クリストファー・アダムス
ニックネーム 英国の弾丸児
身長 185cm
クリス・アダムス
クリス・アダムスの画像
1985年
プロフィール
リングネーム "ジェントルマン" クリス・アダムス
"ジュードー" クリス・アダムス
"ブラックベルト" クリス・アダムス
マスクド・アベンジャー
本名 クリストファー・アダムス
ニックネーム 英国の弾丸児
身長 185cm
体重 103kg(全盛時)
誕生日 1955年2月10日
死亡日 (2001-10-07) 2001年10月7日(46歳没)
出身地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
ウォリックシャー州ラグビー
スポーツ歴 レスリング柔道空手
トレーナー ビッグ・ダディ英語版
トニー・セント・クレアー
デビュー 1978年
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"ジェントルマン" クリス・アダムス"Gentleman" Chris Adams、本名:Christopher Adams1955年2月10日 - 2001年10月7日)は、イギリスウォリックシャー州ラグビー出身のプロレスラーモスクワロサンゼルスの両オリンピック銀メダルを獲得した柔道家のニール・アダムスは実弟である。

1980年代から1990年代にかけて、アメリカ合衆国テキサス地区を主戦場に活動[1]。その甘いマスクで女性ファンの人気を獲得する一方、ジノ・ヘルナンデスとのヒールタッグチームダイナミック・デュオThe Dynamic Duo)で悪名を売るなど善悪両方のポジションで活躍した[1]

ストーン・コールド・スティーブ・オースチンの師匠として著名であり[2]ショーン・マイケルズの代名詞だったスウィート・チン・ミュージックの原型「スーパーキック」の第一人者としても知られた[3]。なお、マイケルズは盟友ヘルナンデスの弟弟子でもある[4]

少年時代から格闘技に励み、柔道空手の段位も取得[5]。イギリスを代表するプロレスラーのビッグ・ダディ英語版トニー・セント・クレアーのトレーニングを受け、1978年に英国でデビュー。武道のバックグラウンドをキャラクターに活かし、当時は "ジュードー" クリス・アダムスまたは "ブラックベルト" クリス・アダムスなどと名乗っていた[1]

1980年からアメリカのマット界に進出し、ロサンゼルス地区のNWAハリウッド・レスリングに参戦。1981年3月、ボボ・ブラジルを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得[6]ジョン・トロスともタイトルを争った。同年5月、ロサンゼルスとの提携ルートで新日本プロレスに初来日し、MSGシリーズ第4回大会に出場[7]。リーグ戦ではキャリア不足と軽量が響き白星配給係となったが、そのフレッシュでイキのいいファイトスタイルで高評価を獲得。以降も新日本プロレスの常連外国人となり、藤波辰巳初代タイガーマスクと好勝負を展開した[8]。また、新日本のブッキングでメキシコLLIにも遠征し、1981年10月18日にペロ・アグアヨからWWFライトヘビー級王座を奪取している[9]

ジノ・ヘルナンデス(右)とのダイナミック・デュオ(1985年)

1983年より "ジェントルマン" クリス・アダムスを名乗り、フリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWに定着[1]。英国からやって来たフォン・エリック兄弟の友人としてベビーフェイス人気を獲得し、ジミー・ガービンファビュラス・フリーバーズマイケル・ヘイズテリー・ゴディバディ・ロバーツ)と抗争、リック・フレアーNWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦した[10]。しかし1984年9月、ケビン・フォン・エリックとの仲間割れアングルが組まれてヒールに転向。翌1985年には同じ色悪系の "ゴージャス" ジノ・ヘルナンデスと "ダイナミック・デュオ" を結成し、NWAアメリカン・タッグ王座を巡ってケビン&ケリー・フォン・エリックと抗争を繰り広げた[11]

1986年2月にヘルナンデスが急死してからはベビーフェイスに戻り、リック・ルードとの抗争を開始。同年7月4日にはルードからWCWA(WCCW)世界ヘビー級王座を奪取している[12]1987年にはビル・ワット主宰のミッドサウス版UWFにも参戦し、2月7日に行われたUWF世界タッグ王座決定トーナメントにテリー・テイラーと組んで出場。決勝で若手ヒール時代のスティング&リック・スタイナーを破り、チャンピオン・チームとなった[13]

1988年の末からはダラスでプロレスリング・スクールを開校し、スティーブ・オースチンらを指導する[1]。ダラスのWCCWがテネシー州メンフィスCWAと合併し1989年USWAが発足すると、同団体にて弟子のオースチンの抗争相手も務めた[14][15]。USWAではエディ・ギルバートブライアン・クリストファーとも対戦している。

1991年WWFのトライアウトを受けるが契約は見送られ、ダラスの新団体GWFに定着[1]アイスマン・パーソンズブラック・バートを抗争相手に、1993年12月と1994年7月の2度に渡り、同団体認定の北米ヘビー級王座を獲得した[16]。日本には1994年にNOW[17]1995年SPWF大日本プロレスに参戦[18][19]。以降もシカゴのAWFなどのインディー団体を転戦した後、1997年9月よりWCWに登場[20]ロード・スティーブン・リーガルと英国人コンビを組んだが本格的なタッグチーム結成には至らず、ミッドカードに出場するジョバーのポジションに甘んじ、1999年にWCWを解雇された[1]

その後はダラス周辺のインディー団体に単発参戦していたが、2000年4月、ドラッグとアルコールの過剰摂取で愛人と一緒に無意識状態になっているところを知人宅で発見される。愛人は数時間後に死亡、アダムスは故殺罪に問われたが、裁判を控えた2001年10月7日、酒の上での喧嘩がもとで友人に正当防衛として射殺された[1][2]46歳没

得意技

獲得タイトル

脚注

外部リンク

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