クリス・ワトソン
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| クリス・ワトソン Chris Watson | |
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| 生年月日 | 1867年4月9日 |
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| 没年月日 | 1941年11月18日(74歳没) |
| 死没地 |
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| 所属政党 | 労働党 |
| 在任期間 | 1904年4月27日 - 1904年8月18日 |
ジョン・クリスチャン・ワトソン(John Christian Watson, 1867年4月9日 - 1941年11月18日)、通称クリス・ワトソン(Chris Watson)は、オーストラリアの政治家で第3代首相。彼はオーストラリア労働党から選ばれた初の首相であり、世界で初めて労働党(社会民主主義政党)から選ばれた首相でもあった。
クリス・ワトソンは自らの父をイギリスの船員であるジョージ・ワトソンだと述べていたが、記録によればワトソンの父はチリ国籍のドイツ人移民ヨハン・クリスティアン・タンク(Johan Cristian Tanck)であり、妻のニュージーランド人女性のマーサ・ミンチン(Martha Minchin)とニュージーランドで結婚しチリへ向かい、バルパライソでクリスが生まれている。両親が離婚した後、母親は1869年にジョージ・ワトソンと再婚し、クリスは新しい父の姓を名乗った。これはクリス・ワトソンの死後まで明らかにされなかったが、ワトソンはオーストラリア生まれでもイギリス生まれでもない現在(2025年)のところ唯一のオーストラリア首相経験者ということになる。
労働運動
ワトソンはニュージーランドのオアマルで学校に通い13歳で印刷工となった。1886年によりよい機会を求めオーストラリアのシドニーに移ったワトソンは新聞社の植字工として働いた。新聞や本の近くで働くことによりワトソンは政治への関心を深めてゆく。
ワトソンは労働組合の活動家となり、1891年にニューサウスウェールズ州労働党の結党に参加し、1892年には25歳でシドニー労働組合(Trades & Labor Council of Sydney)の副委員長となった。1892年7月、労働党と労働組合の対立を調停したワトソンは労働組合の委員長になり、続く数年間は議会に議員を出すための労働党の基礎作りに奔走し、党員間の論争をまとめていった。1894年にワトソンは州立法議会に当選し、当時は労働党は自由貿易党(Free Trade Party)を支える代わりに自由貿易党から譲歩を引き出していたため、ワトソンたちはジョージ・リード州首相に投票した。1898年の州選挙後もワトソンたちはリード政権を支えたため、リードはオーストラリアの連邦政府の確立をすすめることが出来た。
1901年3月の第一回連邦総選挙で労働党から立候補して議員となり、1901年5月8日の党員集会で、翌日の第一回連邦議会開会時の労働党の議員代表となることが決まった。ワトソンは保護主義者党(Protectionist Party)および自由貿易党に次ぐ勢力の労働党のリーダーとして活躍し、保護主義者党と連立を組んでエドモンド・バートン政権とアルフレッド・ディーキン政権を支えた。