この古代都市は、東南アジアにおける都市化の始まりとクメール帝国の形成を理解するための、比類ない考古学的潜在能力を秘めている[1]。
インドシナ半島でこれまでに知られているサンスクリット語の最古の証言の一つ。20世紀初頭、古代都市の中心部、カトリック宣教団の土地にあるフアイ・サ・フア川(Houay Sa Houa)の河口、あるいはもう少し南で発見されたこの石碑は、高さ1.80mの四角い標石の形をしており、各面に16行が刻まれる。現在ワットプー博物館に収蔵されている[3]。古文書学的に5世紀後半のものとされ、メコン川のそばにある古代都市の「創建」を記念している可能性が高いと考えられている[3]。
碑文には「遠方より来たる」マハーラージャディラージャ(大王の王)デーヴァニーカ(Devanika)が、そこでクルクシェートラ ( IAST:Kurukṣetra)と名付けられたマハーティルタ(Mahatirtha、大聖地)を創設したと記録されている[3]。
これ今日、二重の土塁で囲まれた4平方キロメートルの地域と考えられています。囲壁の内側には、30以上のモニュメントの痕跡が見られ、貯水池を伴っている[3]。
古代都市の上限にあるバン・ワット・ルアン・カオのフアイ・サ・フア2(HSH2)遺跡で発見された2つの立方体の台座に刻まれる碑文(K. 1173およびK. 1174)は、クロード・ジャック(Claude Jacques)によって590年と年代決定された奉献文である[3]。
2つともチトラセーナ王子(後のマヘーンドラヴァルマン王)が、父ヴィーラヴァルマンと叔父クタムタパサのために、雄牛(ナンディン)の像を建立したことに言及している。これらの碑文は、ワット・プー地域が、アンコール王朝の王たちが自らを結びつけようと熱望したクメール帝国の基盤形成に貢献した王朝の、まさに「揺りかご」であることを裏付ける[3]。
中心部にあるノン・ヴィエン遺跡の発掘により、南北軸上に並ぶ直径約25メートルの連結された二重の円形煉瓦構造物が確認された。これは仏塔と考えられ、その様式は7世紀初頭のものと推定され、仏教の実践を示す珍しい事例である。東南アジアではインド化の初期から仏教とヒンドゥー教が共存していたことが知られており、中国の年代記によれば、扶南時代に栄えた仏教は真臘の台頭とともにヒンドゥー教に取って代わられた[5]。
ワット・ルアン・カオ寺院の近くから発見された高さ3mを超える石碑(K. 477 / VP I 150)で、4面に文字が刻まれている[4]。この石がナイフを研ぐために使われていたため、テキストは石からほぼ完全に消えてしまっている[3]。
都市の西側城壁外にあるポン・サオ・エ遺跡(Phon Sao-E)で見つかった不完全な石碑(PSE I 543)は、解読が困難な碑文が刻まれている。しかし、ククロード・ジャック(Claude Jacques)はそこからジャヤーヴァルマン1世の名を読み取ることに成功した[3]。
プレ・アンコール期の雄牛(ナンディン)像の台座(VP I 369)はワット・ルアン・カオ村(ラーオ語:ບ້ານວັດຫລວງເກົ່າ 英語:Ban Vat Louang Kao)から出土した大型で保存状態は良好である。ワット・プー博物館に展示されている[3]。
古代都市の中心部にあるワット・ルアン・カオ村(ラーオ語:ບ້ານວັດຫລວງເກົ່າ 英語:Ban Vat Louang Kao)において、プレ・アンコール期のまぐさ(リンテル)が2つ発見された。チャンパサック博物館に展示されているもの(VP I 419)は、HSH2遺跡近くの水田で発見されたもので、サンボー・プレイ・クック様式に属す。鼓手を乗せた2頭のマカラ(神話上の怪魚)が、馬の前半身を吐き出している様子が彫られている。アーチ中央の湾曲部には、楕円形のメダイヨンの中に半人半鳥のガルーダがおり、その両手にナーガ(蛇神)を掴んでいる[3]。