クルツィオ・マラパルテ
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イタリア王国トスカーナのプラートで生まれた。父はドイツ人、母はロンバルディア出身のイタリア人。地元プラートの学校で初等・中等教育を受ける。第一次世界大戦が勃発し、16歳でフランスの外人部隊に志願、ガルバルディ旅団所属[1]。イタリアが連合軍側に参戦したあと帰国、イタリア陸軍第5アルピーニ連隊に所属し、最終的に大尉まで昇進した。
ローマ・ラ・サピエンツァ大学で学んだあとジャーナリストになった。1922年にムッソリーニ率いるファシスト党のローマ進軍に参加[2]。ファシズム左派の中心的理論家として活躍した。1924年にローマでファシズム誌『国家の征服』を旗揚げして編集長を務めた。1926年に小説家マッシモ・ボンテンペッリと雑誌『900』を創刊し、1929年にトリノの日刊紙『ラ・スタンパ』の編集長になった。
やがてムッソリーニやヒトラーを批判し始め、ムッソリーニから疎まれた。そして1933年にファシスト党を除名され、それから反ファシズムの容疑で逮捕されてリーパリ島へと流刑に処されるが、友人で外務大臣ガレアッツォ・チャーノの尽力で解放される。解放後、カプリ島で海を望む崖の上にマラパルテ邸を建築し、多くの文化人を集めた。その後もマラパルテはムッソリーニによって何度も繰り返し逮捕された。
戦中、『コリエーレ・デラ・セラ』紙の記者としてユーゴスラビアに行き、その後、東部戦線の激戦地に送られた。フィンランドやラップランドを経由して1943年半ばにイタリアに帰国後、マラパルテ邸にこもった。ウクライナの小さな村で執筆を始めた小説『壊れたヨーロッパ』は帰国後に刊行、ヨーロッパ中でベストセラーになる。1943年から反ファシズムのレジスタンスに参加、それから自由イタリア軍将校、アメリカ軍司令部の連絡役として活躍した。戦後、イタリア共産党に入党しようとするなど、共産主義に転向した。1947年にパリ移住。1949年に小説『皮』を発表した。
かねてから映画に関心を持っていたマラパルテは脚本を書き映画監督としてイタリアの俳優ラフ・ヴァローネが主演を務めた映画『禁じられたキリスト』を撮影して1951年に公開された。当映画は第4回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールにノミネートされ、第1回ベルリン国際映画祭の特別賞を受賞した。
マラパルテは毛沢東に感銘を受け、1956年に中国へ赴く。中国滞在中、長年の持病を悪化させ、イタリアに帰国。1957年にローマで肺癌のため死去[3]。
邦訳
監督映画
- 『禁じられたキリスト』 1951年