クルト・フォン・ゴットベルク
From Wikipedia, the free encyclopedia
初期の人生
東プロイセンのプロイシッシュ・ヴィルテンで荘園主の息子として生まれる。ギムナジウムで大学入学資格を取得する。
第一次世界大戦が勃発すると、1914年8月に志願兵として胸甲騎兵連隊「グラーフ・ヴランゲル」に入隊。1915年に近衛第1歩兵連隊に移って西部戦線で戦い、1917年に重傷を負う[1]。大戦中に一級鉄十字章および二級鉄十字章、戦傷章黒章を受章した。
ドイツ敗戦後、1919年4月にエアハルト海兵旅団に参加した。1923年11月9日のミュンヘン一揆にも参加している。1924年からは、スウェーデンとイタリアで農作業と農地管理に従事した。
親衛隊入隊後
1931年11月15日に突撃隊に入隊。1932年2月1日に国家社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号948,753)。7月20日には突撃隊を去って、親衛隊に入隊する(隊員番号45,923)。
1934年3月25日には親衛隊特務部隊の大隊長となる。1935年6月1日からブラウンシュヴァイクの親衛隊第49連隊の指揮官となるが、1936年1月5日に自動車事故のため左足下腿部を切断している[1]。1937年7月1日から親衛隊人種及び移住本部の入植部門の局長となる。1939年4月18日からベーメン=メーレン保護領に派遣され、プラハに国土事務局を設置した。だが金融的失政によって11月7日に解任され、一時期職務から離れた[2]。
1940年10月1日から親衛隊本部の補充部門の局長、1941年1月10日に訓練部門の局長となる[3]。
1942年7月21日に「東国及び北ロシア」親衛隊及び警察高級指導者指揮下の「白ロシア」親衛隊及び警察指導者に任命される。11月16日から戦闘団「フォン・ゴットベルク」司令官となり、対パルチザン作戦に参加した。

1943年7月5日には「中央ロシア及び白ロシア」親衛隊及び警察高級指導者代理となる。9月22日に白ロシア行政委員であるヴィルヘルム・クーベが暗殺されると後任に任じられた。ゴットベルクのもとで白ロシアにおける独立政府・ベラルーシ(白ロシア)中央ラーダおよびベラルーシ防衛部隊(BKA)の創設の方向性について承認がなされた[1]。
1944年8月7日に第12SS軍団長に就任し東部戦線の第3戦車軍の下で、さらに1944年9月末から西部戦線の第1降下猟兵軍指揮のもとで野戦部隊の指揮を執ったが、重病となり入院した。
最期
オランダの北西軍集団付として療養していたが、ベルリン陥落寸前にゲッベルスからの密命で除隊した兵士の再動員の役割を負いフレンスブルク政府に合流するもドイツ降伏に伴い政府閣僚ともどもイギリス軍の捕虜となる。捕虜となって1週間ほど経った5月31日にルッツホフト収容所で自殺[1]。
