クレア家
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クレア家(House de Clare)は、ウェールズ辺境領、サフォーク、サリー、ケント(特にトンブリッジ)およびアイルランドに領地があったノルマン貴族の家系である。同家は、ノルマン・コンクエスト時にウィリアム1世に従ってイングランドに来た初代クレア卿リチャード・フィッツギルバート(1035年 - 1090年)を始祖とする。男系でノルマンディー家の子孫にあたり、ノルマンディー公リシャール1世の庶子である初代ウー伯およびブリオンヌ伯ジョフロワの子孫である。初期のノルマン人はヴァイキングの結婚の慣習「More danico」に従っており、それを合法の結婚形式と考えていた[1]。しかし、この慣習を教会は内縁関係と同じであるとみなし、キリスト教による結婚と同等であるとみなさなかったため、ジョフロワは庶子とされた[2][3]。クレア家は当時のイングランド、ウェールズおよびアイルランドで最も権力と影響力を持つ一族の一つであった。

クレア家は、2代ウー伯およびブリオンヌ伯ギルバート・ド・ブリオンヌの子孫であり、ギルバートの父ジョフロワはノルマンディー公リシャール1世の庶子であった。ギルバート・ド・ブリオンヌは1035年に幼年でノルマンディー公位についたギヨーム2世の後見人の一人であった。ギルバートが1039年もしくは1040年に暗殺され、その息子ボールドウィン・ド・ムル(Baldwin de Meules et du Sap)とリチャード・ド・ビヤンフェット(Richard de Bienfaite et d'Orbec)は後見人らとともにフランドル伯ボードゥアン5世のもとへ逃亡した。1053年、ギヨーム2世がボードゥアン5世の娘と結婚した際に、二人はノルマンディーへと戻り、ギヨームは優遇し受け入れた。ノルマン・コンクエストの後、リチャードはクレアおよびトンブリッジを含むかなりの所領を与えられ、リチャードはそれらの地名を付けて呼ばれた。
リチャード・モーティマーによると、リチャードは「イングランド、ウェールズおよびアイルランドの、歴史家がクレア家と呼ぶ貴族の家系の祖」である[4]。その歴史上の情報源ははっきりしておらず、クレアの名が使われ始めた時期と矛盾するが、リチャード・フィッツギルバート(オブ・トンブリッジ)は「ドゥームズデイ・ブック」のサフォークの報告書において一度だけリチャード・オブ・クレアとして言及されている[5]。リチャードの兄弟ボールドウィン・ド・ムルはエクセターの降伏(1068年)後、この地を任されてとどまり、デヴォンシャーの長官となった。デヴォンシャーとサマーセットシャーの広大な領地は彼のものとなり、「ドゥームズデイ・ブック」にはボールドウィン・オブ・エクセターまたはボールドウィン長官として言及されている[6]。

リチャードの死後、イングランドの領地は息子の2代クレア卿ギルバート・ド・クレア(1055年 - 1117年)が継承し、ギルバートが最初にド・クレアを姓として用いた。ギルバートの長男3代クレア卿リチャード・ド・クレア(1090年 - 1136年)は、ハートフォード伯家およびグロスター伯家の祖である。リチャードの弟ギルバートはウェールズで地歩を固め、ペンブルック伯領およびストリギル領を手に入れた。兄リチャードの家系はハートフォード伯領を手に入れ、その時以来、ハートフォード伯およびクレア伯となった[7]。ジョン・ホラース・ラウンド(en)によると、ギルバートはほとんどハートフォードの領地に関心を持たず、通常クレア伯の称号を用いていたと見られている[6]。
「英国人名辞典」によると、ハートフォード伯となる以前に「クレア伯」であったことは事実ではない、とされており、一族は「ハートフォード」もしくは「オブ・クレア」の名で交互に呼ばれていたとされている[8]。一方、ギルバート・ド・クレアは1138年から1142年の間にハートフォード伯領を与えられ、一族がこの地にかなりの関心を持っていたとも考えられている[9]。また、1141年クリスマスにギルバートがハートフォード伯と言及されており、1138年以降ハートフォード伯であったとみられる、とも言われている[10]が、同名の他人である可能性もある。一般的に、現在では「クレア伯」は自称であると考えられている。
1217年から1220年にかけて、4代ハートフォード伯ギルバート・ド・クレア(1230年没)は、2代グロスター伯ウィリアム・フィッツロバート(1183年)の、グロスター伯領およびグラモーガンの所領を相続した。「ストロングボウ(Strongbow、強弓の)」の名で知られている、2代ペンブルック伯リチャード・ド・クレア(1176年没)の息子ギルバートは早世し、アイルランドおよびウェールズの広大な領土は娘イザベルに相続された。イザベルはウィリアム・マーシャルと結婚し、夫ウィリアムがペンブルック伯となった[8]。
紋章


三本のシェブロンからなる紋章は、おそらく12世紀末頃から使われ始めたと見られる[11]。上のステンドグラスは、クレア家で最初にテュークスベリー修道院内陣に葬られた4代ハートフォード伯ギルバートの時代より後のものである。イエスティン・アプ・グルガント(Iestyn ap Gwrgant, 1045年頃 - 1093年)はウェールズのモルガヌグ王国(Morgannwg)の最後の王であるが、その王国はグラモーガン伯領およびモンマスシャー伯領に相当していた。イエスティン王は5世紀前のTewdrig(550年頃 - 584年)にさかのぼるモルガヌグ王家の最後の王であった。この王家は婚姻を通して他のウェールズの王家とつながっており、ロードリ大王(Rhodri Mawr)の子孫でもあった。グラモーガンは最終的に何世紀にもわたってクレア家が領有した(Lordship of Glamorgan)。