グレゴリー・ケリー
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| 生誕 |
1944年5月19日 | |||
| 死没 | 1961年2月15日(16歳没) | |||
| 選手情報 | ||||
| 代表国 |
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| コーチ | モントゴメリー・ウィルソン | |||
| 所属クラブ | Broadmoor Skating Club | |||
| 引退 | 1961年 | |||
グレゴリー・ケリー(Gregory Eric "Greg" Kelley、1944年5月19日 - 1961年2月15日)は、アメリカ合衆国出身の男性フィギュアスケート選手である。1961年の全米フィギュアスケート選手権(男子シングル)で2位となって、同年の世界フィギュアスケート選手権代表に選出された[1]。しかし、開催地のプラハに向かう途上、搭乗していた航空機が事故(サベナ航空548便墜落事故)に遭って死亡した[注釈 1][1][2]。
マサチューセッツ州の出身[1][3]。父は医師で、6人兄弟姉妹の一番下の子であった[1]。ニュートン市で育ち、カトリック系の学校に入学した[1]。ケリーは、将来は父のような医師になることを目指していた[1]。
フィギュアスケートを始めたのは、8歳のときであった[1]。ボストンにあるスケートクラブで、モントゴメリー・ウィルソンの指導を受けた[1]。ケリーの家族は、彼がフィギュアスケートを続けるために多大な援助を与えた[3]。長姉のナタリーはボストンで科学の教師を務めていたが、弟の個人教師となってトレーニングや遠征等で移動する際も一緒に付き添っていた[1][3]。
1957年、全米フィギュアスケート選手権(男子シングル)のノービスクラスで優勝し、1958年はジュニアクラスで2位、1959年はジュニアクラスで優勝した[1]。1960年は、全米フィギュアスケート選手権で5位となり、同年の世界フィギュアスケート選手権に初出場して9位の成績を残した[1][2]。
1961年、全米フィギュアスケート選手権で2位、北米フィギュアスケート選手権で3位となって同年、チェコスロバキア(当時、現チェコ)のプラハで開催予定だった世界フィギュアスケート選手権代表に選出された[1]。同年2月15日、ケリーを含む世界フィギュアスケート選手権アメリカ合衆国代表チーム(選手18名、コーチ6名、マネージャー1名、競技委員と審判員3名、選手・コーチ等の家族6名)は、ニューヨークのアイドルワイルド空港(現在のジョン・F・ケネディ国際空港)からサベナ航空548便ボーイング707-329(機体記号OO-SJB、1959年製造)に搭乗してベルギー・ブリュッセル国際空港に向かっていた[2]。しかし、着陸直前に機体が制御を失って上昇と横傾斜を始め、そのまま空港近くの村落に墜落した[1][2]。
事故機の機体は炎上し、世界フィギュアスケート選手権アメリカ合衆国代表チームを含む乗客乗員72名全員と地上に居合わせて事故に巻き込まれた住民1名が死亡し、住民1名が重傷を負った[注釈 1][1][2]。なお、この事故でケリーの姉ナタリーも死亡している[1][2]。
ケリーはマサチューセッツ州サフォーク郡ウエストロクスベリーにあるセント・ジョゼフ墓地に埋葬された[4][5]。2011年、1961年世界フィギュアスケート選手権アメリカ合衆国代表チーム(34名)は全米フィギュアスケート協会殿堂入りを果たしている[2][6][7]。