モスクワの南方トゥーラ市の小官吏の子として生まれる。トゥーラで学び、その後チェルニーゴフに移る。1861年にペテルブルク大学に入学し、翌年にモスクワ大学に転じるが1863年に中退する。そのころから地方都市の職人や小官吏の生活を描いた散文を«ヤースナヤ・ポリャーナ Ясная Поляна», «Библиотека для чтения», «ロシアの言葉 Русское слово», «Зритель», «Северное сияние», «Искра», «Будильник», «Женский вестник», «Новый русский базар», «同時代人 Современник»などの雑誌に載せ、文名を確立。1870年代には「ヴ・ナロード」運動に身を投じるためにロシア東南部のサマーラ県に赴く。農奴解放の否定的影響があらわれ商業主義の犠牲となった農村共同体を目撃したウスペンスキーは、村の生活についてペシミズムに彩られたスケッチを描く。その後、北部ロシアのノヴゴロド県に移り、記録文学の著述を続けた。80年代におけるナロードニキの大量逮捕と反動の動きに憂鬱症をわずらって1889年に発狂し、死ぬまでの13年間は精神病院で過ごしている。