ケネス・メイソン

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ケネス・メイソン、1907年撮影。

ケネス・メイソン(Kenneth Mason MC1887年9月10日1976年6月2日)は、軍人、地理学者で、オックスフォード大学において最初に、法定 (statutory) の地理学教授となったことで知られる[1]。業績の中にはヒマラヤ山脈の測量調査も含まれており、「インドおよびロシア領トルキスタンの測量調査を結びつけ、シャクスガム遠征を指揮したこと」に対して1927年王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を贈られた[2]

ケネス・メイソンは、(後にロンドンの一部となった)サリーサットンに、材木商の父スタンリー・イングルデュー・メイソン (Stanley Engledue Mason ) とその妻であった母エレン・マーティン・ターナー (Ellen Martin Turner) の息子として生まれた[3]。子どもの頃にフランシス・ヤングハズバンドの『'Heart of a Continent』に感銘を受け、地理学を志し、長じてインドやヒマラヤ山脈の測量調査に向かう契機となった。

メイソンは、チェルトナム・カレッジ英語版からウーリッジ王立陸軍士官学校に進み、陸軍工兵隊 (Royal Engineers) に士官として配属された。そこで彼は、3次元写真の初期の技術開発に関わったが、それはやがて航空写真と地上からの写真を用いた地図製作法の革命的変革につながるものであった。

1909年、メイソンはインド測量調査所英語版に配属されてカラチへ赴いた。1910年から1912年にかけて、彼はカシミール地方で三角測量に従事し、その間に登山技術を身に付け、スキーも自学自習し、立体的な測量調査を行った。

1917年、ドロシー・ヘレン・ロビンソン (Dorothy Helen Robinson) と結婚し、息子ふたりと娘ひとりをもうけた。

メイソンは、布商人の同業者組合に起源を持つリヴァリ・カンパニーであるドレイパーズ・カンパニー英語版に深く関わっており、1949年にはそのマスター(会長)となった。

軍歴

1914年第一次世界大戦に動員されたメイソンは、フランスへ赴き、ヌーヴ・シャペル英語版方面や、ルースの戦い英語版に参加した後、1916年1月に、イラクバスラに赴いた。クートを確保する作戦の一環として、ドゥジャラー砦の側面を目指した夜間行軍を指揮し、それによってミリタリー・クロス(武功十字章)を授与された。彼は情報士官としてブラック・ウォッチ英語版とともにバグダッドに入った。彼は名誉進級英語版少佐となり、3度にわたり上官の報告書で言及された (Mentioned in dispatches)。休戦協定が結ばれた後、彼はシリアの砂漠を自動車で横断した人物となった。

地図製作者

おもな著書

脚注

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