ベルリンで作曲とホルンを学ぶ。1899年から1906年まで、影響力ある音楽家や、「(Vossische Zeitung)」の音楽特派員の立場で、ロンドンで活動し、その後は1914年まで研究者として働いた。1920年に「ドイツ音楽家新聞(Deutschen Musiker-Zeitung)」(1933年廃刊)に転任した。1930年から歿年までベルリン・シュテルン音楽院(1936年に帝都ベルリン音楽院と改称)にて和声法とピアノ奏法を指導した。
作曲家としてゲオルク・グレーナーは、アントン・ブルックナーの伝統に立脚している。評論家としては、マックス・レーガーの作品に肩入れした最初の一人に数えられる。1922年には従兄パウル・グレーナーの評伝を書き上げて名を馳せたが、但し本人の了解をとってはおらず、パウルはそのことについて不服であった[1]。とはいえ二人は後に合作を行い、パウルのためにゲオルクは歌劇《ハンネレの昇天(Hanneles Himmelfahrt)》(1927年)の台本を手懸けている。従兄パウルに同じく、ゲオルクも国家社会主義に転向し、『ドイツ音楽と非ドイツ音楽(Deutsche und undeutsche Musik)』のようなプロパガンダ論文を発表した[2]。