ゲルトルート・カントロヴィチ
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ゲルトルート・カントロヴィッチは、裕福なユダヤ人家庭の三番目の子として、1876年10月9日にポズナンで生まれました。父親のマクス(マックス)・カントロヴィッチ (独: Vater Maks (Max) Kantorowicz)、1843年生まれで1904年になくなった。彼は、ポーゼンの酒造会社「ハルトヴィヒ・コントロヴィッツ (独: Hartwig Kontorowicz) 」の経営者であった。母親はロザリンデ (独: Rosalinde)で、旧姓 : パウリー (独: Pauly) であった。彼女は1854年生まれで1916年に亡くなっている。カントロヴィッチ家は学術界や教養市民層との広範なつながりを持っていた。
ゲルトルートの従兄には、ゲオルゲ派に属する歴史家エルンスト・カントロヴィチがおり、彼女はまた、同じくゲオルゲ派の周辺にいた経済学者アルトゥール・ザルツ (従姉のソフィー・カントロヴィッチ (独: Sophie Kantorowiczの夫、歴史家の妹)とも姻戚関係にあった。
さらに、哲学者のルートヴィヒ・シュタイン、ドイツ文学者ヴェルナー・ミルヒ、美術史家クルト・グレーザー、作家エミール・ルートヴィヒとも交流があった。
1898年、ゲルトルートはポーゼンのギムナジウムで「アビトゥーア (大学入学資格) 」を取得した。学校教育を終えた後、学問に興味があり理解力にもすぐれていたため、学問を究めたいと考えた。そして、父の反対を押し切り、1898年にベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学へ進学した。その後、ミュンヘン大学とチューリッヒ大学でも学んだ[1]。彼女は美術史、考古学、哲学を学び、1903年にはチューリッヒ大学にて、ヨハン・ルドルフ・ラーンの指導のもと、「ヴェネツィアのサン・サルヴァトーレにあるエマオの絵の作者について (独: Über den Meister des Emmausbildes in San Salvatore zu Venedig) 」というタイトルの論文で学位を取得した。
ベルリンでの大学在学中、彼女は詩人シュテファン・ゲオルゲと知り合い長年にわたり友情関係を築いた。1910年から1911年にかけて、彼らはベルリン・ヴェストエンド(独: Westend) で共同生活を送った。 ゲオルゲの働きかけにより、彼女は彼が主宰する雑誌『芸術のための葉』に、唯一の女性として詩「ある死者へ」を発表した[2]。ただし、それは母の旧姓を用いたペンネーム「Gert. Pauly」で掲載された。
ゲオルゲ派のメンバーの中では、ザビーネ・レプシウス、マルガレーテ・ズースマン、エディト・ラントマン、そしてカール・ヴォルフスケールと特に親しく交流していた。ベルリンでは、カントロヴィッチは哲学者ゲオルク・ジンメルとも親密な関係を築いた[3][4]。ジンメルは当時、ベルリンのベルリン大学で私講師を務めており、妻ゲルトルートとともにベルリン=シャルロッテンブルクの自宅を、著名な知識人たちとの交流の場としていた。
このことから、カントロヴィッチは画家夫妻ラインホルトとサビーネ・レプシウス、マルガレーテ・ズースマン、ルドルフ・パンヴィッツらと親密な関係を築いた。彼女はジンメルと恋愛関係になり、二人の間には娘アンギ (独: Angi) が生まれた[3][4]。アンゲリカは1907年にボローニャで誕生した。両者は娘の出自を隠し、父ジンメルは娘に会うことを拒否した。
1918年9月のゲオルク・ジンメルの死は彼女に深い衝撃を与え、それ以降、彼女はそれまでの約束に縛られることはなくなった。1923年、彼女はジンメルの未発表原稿を出版することで、かつての約束を果たした[5]。
大学卒業後、ゲルトルート・カントロヴィッチはフリーランスの芸術家として活動した。彼女はイタリアへの研究旅行を行い、そこで近世初期の15世紀および16世紀の研究テーマに取り組み、翻訳を手がけ、詩も執筆した。第一次世界大戦中には、複数のトルコの野戦病院で看護師として働いた。
1920年、彼女はウルム近郊のヘルリンゲン、ヴィッピンガー・シュタイゲ (独: Besuchen im Haus der Pflegeeltern) に家を購入し、翌年には娘とともにそこへ移住した。 この移住は長年の友人であるマルガレーテ・ズースマンの近くで暮らしたいという思いも、重要な動機のひとつだった。 ここで彼女は再びフリーランスの芸術家として活動を始め、ミケランジェロのソネット (独: Sonette) 、アンリ・ベルクソンの『創造的進化』を翻訳し、また「ギリシア芸術の本質について(独: Vom Wesen der griechischen Kunst) 」という論考にも取り組んだ。
1926年に娘アンギがハイデルベルクで大学生活を始めると彼女は住居を移した。ヘルリンゲンの家は、ユダヤ人の子どもたちのための寄宿学校「ヘルリンゲン田園学校」の設立を進めていた改革派教育者アンナ・エッシンガー (1879年 - 1960年) に貸し出された。
1930年代、カントロヴィッチは広範な旅行を行った。それは彼女自身の研究関心に基づくものであると同時に、ナチス政権によって迫害されていた人々の国外脱出を支援することを目的とするようになっていった。 1933年以降、ドイツにおけるユダヤ人に対する迫害が悪化するなか、彼女は現実を直視することを拒んだ。また、ユダヤ教により深く向き合うようになり、親しい友人ミヒャエル・ラントマンの証言によれば、ナチスによる差別的な識別制度に抗して、公の場でユダヤ人を示すユーデンシュテルンを身につけることを拒否したという。
この時期、彼女は「ギリシア研究のための作業グループ (独: Arbeitsgruppe für griechische Studien) 」と偽装された組織にも関わっていた。この組織では、レナータ・フォン・シェリハ、マルグレート・シュスター (独: Margret Schuster) 、マルガレーテ・レースナー (独: Margarete Roesner) 、ウルズラ・フォン・ローゼ (独: Ursula von Rose) 、マリアンネ・フォン・ヘレマン (独: Marianne von Herremann) らがユダヤ人やその他の保護を必要とする人々を支援していた。
1937年、彼女はブーヘンヴァルト強制収容所に収容されていた作家エルンスト・グンドルフ (1881年 - 1945年)の釈放を試みた。そのためにヴァイマールを訪問し現地の収容所司令官と交渉を行った。彼女の最大の関心は、他者の亡命に向けた緊急の手段を常に新たに見つけ出すことだった。
当時、カントロヴィッチは英国の査証付きパスポートを所持していたが、自身の安全のためにそれを利用することはなかった。
1940年になってようやく、ナチス国家内において自分に未来はないと認識した。しかしその時点では、彼女自身の国外脱出の試みも失敗に終わった。
1942年5月7日、彼女は他の4人の女性とともにスイス国境を越えようとした際、ディーポルツザウで逮捕された[6]。数週間にわたり拘束され尋問を受けた後、同年7月6日にテレージエンシュタット強制収容所へと移送された[1]。
そこでは、彼女は「不屈の人々 (独: Standhaften) 」のひとりとして、弱者を助け、励まし、非人道的な環境に屈することなく過ごした。彼女は小さな紙片に詩を書き留め、それらは後に『テレージエンシュタットの詩 (独: Verse aus Theresienstadt) 』として出版された[1]。
1945年4月19日または20日、赤軍の到着の1週間前に、ゲルトルート・カントロヴィッチは髄膜炎のため亡くなった[1]。
主著
- 『ある死者 (独: Einer Toten) 』 (1899年)
- 『ヴェネツィアのサン・サルヴァトーレにあるエマオの画家について (独: Über den Meister des Emmausbildes in San Salvatore zu Venedig.) 』 E. Buchbinder, Neu Ruppin 1904年
- 『ミケランジェロ翻訳 (独: Michelangelo-Übertragungen) 』 (1925年、1926年)
- 『テレジエンシュタットからの詩 (独: Verse aus Theresienstadt) 』 (1942年–1945年)
- 『ギリシア美術の本質について (独: Vom Wesen der griechischen Kunst.) 』Hrsg. und mit einem Nachwort versehen von Michael Landmann, Verlag Lambert Schneider, Heidelberg und Darmstadt 1961年
- 『詩集―批判校訂版 (独: Lyrik. Kritische Ausgabe.) 』Hrsg. von Philipp Redl. Manutius, Heidelberg 2010年
- 『詩集―批判校訂版』 フィリップ・レーデル編、マヌティウス、ハイデルベルク 2010年