コンスタンティン・イレチェク
From Wikipedia, the free encyclopedia
コンスタンティン・イレチェク | |
|---|---|
|
| |
| 生誕 |
1854年7月24日 オーストリア帝国、ウィーン |
| 死没 |
1918年1月10日(63歳没) オーストリア・ハンガリー帝国、ウィーン |
| 市民権 | オーストリア・ハンガリー、ブルガリア |
| 親 | ヨーゼフ・イレチェク (1825–1888)、ボジェナ・シャファーリク |
| 親戚 | パヴェル・ヨゼフ・シャファーリク (母方の祖父) |
| 家族 | イレチェク家 |
コンスタンティン・ヨゼフ・イレチェク[注釈 1](Konstantin Josef Jiereček、1854年7月24日 – 1918年1月10日)は、オーストリア・ハンガリー帝国出身のチェコの歴史家、政治家、外交官、スラヴ学者[1]。チェコにおけるバルカン学、ビザンツ学研究の父であり、ブルガリアおよびセルビアの歴史に関する著書なども広く執筆した。また、ブルガリア公国の大臣を数年間務めた[2]。
イレチェクは歴史家ヨーゼフ・イレチェクと、スロヴァキアの言語学者パヴェル・ヨゼフ・シャファーリクの娘ボジェナの間に生まれ、家族はスラヴ学に深く関わっていた。
イレチェクはウィーンで育ち、1864年から1872年までウィーンの名門ギムナジウムのひとつ、テレジアヌムに通った[3]。在学中、イレチェクはフランス語、セルビア・クロアチア語、ブルガリア語、イタリア語、ロシア語、英語、ハンガリー語、トルコ語、ギリシャ語といった外国語に興味を持ち、積極的に学んだ[3]。1872年、プラハ大学の言語学部に進学し、歴史や現代文献学を学んだ[3]。この頃、親しい友人にフランスの歴史家エルネスト・ドニや、ブルガリアの俳優クラスチョ・ピシュルカの息子たちがいた[3]。1874年、クロアチア=スラヴォニア王国とセルビア公国へ研修旅行に出かけ、その後南スラヴ諸国の歴史に関するいくつかの論文を発表した[3]。
1876年、イレチェクにとって最初の著書『ブルガリアの歴史』を出版した。これは中世ブルガリアの建国からオスマン帝国に征服されるまでを網羅した歴史的著作で、22歳ながら歴史家たちから注目を浴びた[3]。 これには当時ヨーロッパではあまり知られていなかったブルガリア民族が、4月蜂起によって一般市民の関心を集めていたことも影響していた[3]。これらブルガリア史に関する論文によって、1876年に哲学博士号を取得した。1877年、イレチェクのハビリタチオンはコンスタンティノープルとベオグラードに分割された。
露土戦争の終結後、新たなブルガリア人国家であるブルガリア公国が建国され、イレチェクは同国の行政、教育、経済の構築に貢献した。1879年には政府に雇用され、1881年5月から7月まで外務大臣、1882年まで科学大臣を務めた。1884年にはソフィア国立図書館の館長に任命された。ブルガリア滞在中、イレチェクはバルカン学やビザンツ学に専念し、その成果を多数発表した。これらを総じて、イレチェクは1878年の近代国家成立直後の数年間で、近代教育制度の確立と社会変革に大きく貢献した[4]。
1884年から1893年までプラハのカレル大学で教授として普遍史を教えた。その後、1918年に死去するまでウィーン大学でスラヴ語学を教えた。イレチェクの死後は、カール・パッチが職を継いだ。
著書
栄誉
南極のサウス・シェトランド諸島スミス島にあるイレチェク岬は、イレチェクにちなんで名付けられた。セルビア科学芸術アカデミーの学術誌(セルビア語キリル・アルファベット: Зборник Константина Јиречека)も彼の名を冠している。