コンスタンティン・ダニエル・ローゼンタール
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ペシュトのユダヤ人商人の家に生まれた。17歳でウィーン美術アカデミーに入学し、絵画を学び、1839年に卒業した。ウィーンで版画を学んでいた、ルーマニア出身の画家イワン・ネグリチ(Ion Negulici: 1812-1851)と知り合い、1842年に当時ワラキア公国の首都であったブカレストに移った。ボヤール(中世ロシアなどの貴族階層)の肖像画の制作を始めた。自由主義者のサークルに紹介され、ワラキア革命の指導者となるニコラエ・バルチェスクとも知り合った。
肖像画家としての収入で1846年にイギリスに渡り、その後パリに滞在した。1847年初頭にブダペストに戻り、その後8月にはブカレストに移った。再び急進的なサークルに加わり、文学団体に偽装した秘密結社のメンバーとして活動した。
ワラキア革命が勃発した時、ローゼンタールはオーストリアの旅券を所有していたため、ワラキア公国の統治者のゲオルゲ・ビベスク(Gheorghe Bibescu)による最初の弾圧を免れた[1]。1848年6月18日に臨時政府が政権を握った直後、ローゼンタールはワラキアの市民権を申請し認められた[2][3]。
臨時政府から革命の成功を記念するブカレストの凱旋門の設計を依頼されたが、9月末に、オスマン軍が革命に介入した後、ほとんどの急進派の活動家は逮捕され各地に追放された。
ローゼンタールはハンガリー革命が続いていたブダペストに戻り、1849年10月に革命が鎮圧された後、1850年5月にパリへ移り、ルーマニア亡命者と共に宣伝活動に従事した。
資金不足のためローゼンタールはスイスへ渡り、1850年末にスイスのポラントルイでしばらく暮らした後、1851年初頭にフリブール、クールを経てオーストリアのグラーツに滞在し、7月まで活動した。
ローゼンタールはルーマニアに戻る計画をたてたが、計画はフランス政府からオーストリア政府に伝えられブダペストでオーストリア軍にブダペスト滞在中に逮捕され[4]、取り調べ中にローゼンタールは亡くなり遺体は家族のもとに戻されなかった。