コントレラスの戦い
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| コントレラスの戦い | |
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コントレラスの戦い | |
| 戦争:米墨戦争 | |
| 年月日:1847年8月19日-20日 | |
| 場所:メキシコシティ連邦地区 | |
| 結果:アメリカ軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 8,500名 | 5,000名 |
| 損害 | |
| 戦死または負傷300名 | 戦死700名 ホセ・フロンテーラ将軍 † 負傷1,224名[1] 捕虜843名 ガブリエル・サラス、ニコラス・メンドーサ、サンティアゴ・ブランコ各将軍を含む、 捕獲された大砲22門、武器1,000、幾つかの軍旗も失った。 |
コントレラスの戦い(コントレラスのたたかい、英: Battle of Contreras、西: Batalla de Contreras)、またはパディエルナの戦い(英: Battle of Padierna、西: Batalla de Padierna)は、米墨戦争の最後の会戦として1847年8月19日から20日に行われた戦闘である。翌日のチュルブスコの戦いに繋がった。
ウィンフィールド・スコット指揮下のアメリカ陸軍はメキシコシティへの行軍中に、「エル・ペニョン」(現在のメキシコシティ国際空港近く)で強力なメキシコ軍が北の道を塞いでいるのが分かった。
スコットはメキシコシティの南西「ペーニャ・ポブレ」で陣を布き、ザカテペット・ヒルから溶岩平原である「ペドレガル」を越えて西に、サン・ヘロニモの町へ1軍を派遣し、コントレラスの「ランチョ・パディエルナ」でバレンシアのメキシコ軍陣地側面を衝こうとした。メキシコ軍司令官で大統領のアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナはガブリエル・バレンシア将軍に「北部軍」約5,000名を付けてアメリカ軍の側面を衝くために派遣した。
コントレラスあるいはパディエルナの戦いは1947年8月19日に始まり、メキシコシティの郊外パディエルナで8月20日の夜明けに頂点に達した。パディエルナは近郷のサン・アンヘル、コントレラスおよびトラルパンの中にある(現在はサン・ヘロニモ、近郷のエロエス・デ・パディエルナ、アンサルド・ダム周辺の地域と、皮肉なことにメキシコシティの「プラシッド(平静な)・ガーデンズ」と呼ばれる地域の間にある)。
一般にこの戦闘は、メキシコ指導者によってあきれるような戦闘が行われた小規模なものと見なされている。指導層を分裂させる裏切りや諍いがあったとしても、戦場における戦士たちの勇気については疑いもなく、またメキシコ側指導者の作戦が良ければ、戦争終盤を意義ある形で変化させることのできたであろう戦闘だった。