コンドラチイ・ルイレーエフ From Wikipedia, the free encyclopedia コンドラチイ・ルイレーエフ コンドラチイ・フョードロヴィッチ・ルイレーエフ(ロシア語: Кондра́тий Фёдорович Рыле́ев、Kondratii Fyodorovich Ryleyev、1795年9月29日(ユリウス暦9月18日) - 1826年7月25日(ユリウス暦7月13日))は、帝政ロシアの詩人、革命家。いわゆるデカブリスト(十二月党)の指導者で、デカブリストの乱の首謀者の一人として処刑された。 1795年9月29日(ユリウス暦9月18日)、サンクトペテルブルク郊外のガッチナに近いバトヴォ(Batovo)に小規模な土地を所有する貴族の家系に生まれた。1801年サンクトペテルブルクの陸軍幼年学校、士官学校(第一軍事学校)に学ぶ。1814年学業を終え、1812年ロシア戦役に従軍した。1818年に軍を退役し、1821年サンクトペテルブルク刑事裁判所判事補を経て、1824年以降露米会社に勤務する。 この間、1820年に風刺頌(しょう、英語版では、オードOde)「ミニオンに」To Minionを執筆する。この作品は皇帝アレクサンドル1世の寵臣で国政を壟断していたアレクセイ・アラクチェーエフを明らかに風刺したものであった。翌1821年ルイレーエフは、当時、ペテルブルクでは最も著名な文学者の集まりである「自由ロシア文学愛好家協会」(露: Вольное общество любителей российской словесности)に入会した。 その他、文学上の事業、事跡としては1823年から1825年にかけて、アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・ベストゥージェフ(英語版)とともに、年鑑「北極星」(露: Полярнаязвезда)を出版したことがあげられる。 1823年青年将校らの秘密結社「北方結社」に入会する。本来、北方結社は、穏健な立憲制導入を目指していたが、ルイレーエフ、ベストゥージェフらは、共和制を志向し、北方結社は急進化していった。 1825年12月27日(ユリウス暦12月14日)夜、皇帝弑逆の容疑で逮捕された。反乱失敗後、軍事法廷でパーヴェル・ペステリ、ピョートル・カホフスキー、セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル、ミハイル・ベストゥージェフ=リューミンそしてルイレーエフの5人は反乱の首謀者と見なされ、四つ裂き刑を宣告されたが、後に絞首刑に変更された。1826年7月25日にペトロパヴロフスク要塞で刑が執行され、遺体は、ペテルブルク、コロデイ島に秘密裏に葬られた。 参考文献 草鹿外吉『ジュニア版 世界の詩人 ロシア・ソビエト』 さ・え・ら書房、1972年。 関連項目 著名な決闘の一覧List of famous duels 典拠管理データベース 全般 FAST ISNI VIAF WorldCat 国立図書館 ノルウェー スペイン フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ ラトビア チェコ オーストラリア クロアチア オランダ ポーランド ロシア 学術データベース CiNii Books CiNii Research 芸術家 MusicBrainz 人物 ドイッチェ・ビオグラフィー Trove(オーストラリア) 1 その他 IdRef Related Articles