ムハンマド・アリーが50歳代の時に、美貌で知られたコーカサス地方出身の側室アイン・アルハヤトと結婚して生まれた子ども[2]。ムハンマド・アリー朝第2代総督イブラーヒーム・パシャ(1780年代後半-1848年、在位1848年9月-同年11月)は異母兄。少年時代、肥満であることが一因で、温和な性格ではあったが人前に出るのが苦手だった。父ムハンマド・アリーはサイードにヨーロッパ各領事を毎日訪問しフランス語で話すことを義務付けた。彼は徐々に内気さを克服し、フランス語を流暢に話せるようになったと言われる。こうして彼が出会ったのが当時フランス領事を務めていたフェルディナン・ド・レセップス(1805-94年)であった[3]。レセップスは、1832年に駐アレクサンドリア副領事としてエジプトに着任し、1837年まで勤務していた。その際、かつて同じくエジプトに勤務した父親がムハンマド・アリーと親交を結んでいたことから総督家に厚遇され、少年時代のサイードの家庭教師を務めた[4]。家庭教師レセップスとサイードのこの時期については様々な逸話が残されている(例えば、父ムハンマド・アリーがサイードに絶食を命じ、船のマスト登りやボート漕ぎなどの運動を課していたが、唯一レセップスの宅でマカロニを頬張れることができたという話など)[5]が、真実はともかく二人は親密な関係を築いていったとされる[6]。
1854年に即位すると近代化政策を進めた。人道的、民主的な改革を行なった。
恩師フェルディナン・ド・レセップスに勧められスエズ運河の開発を始めるが、農民に多大な負担をかけ財政が非常に悪化する。そのことによるショックから1863年に崩御した。40歳。