ソ連軍には戦争中に大損害を生んだ事故を隠蔽する傾向があったため、この火災事故に関する情報はほとんどが伝聞によるものである。
第1報では燃料や大砲が爆発し、最大2700人が死亡したとされた[1]。また事件後には、西側の外交官が「タンクローリーの衝突により最大700人のソ連兵と、400人から2000人のアフガン市民が死亡した」ことを示唆している[2]。犠牲者の死因は焼死もしくは窒息死だった[2]。この死亡者数は、何度も下方修正された。
ソ連軍の記録によれば、1982年11月3日、軍用車2211と2212がサラン峠トンネル内で衝突事故を起こして渋滞が発生したが、火災や爆発事故は発生していないとされている。その代わり64人のソ連兵と112人のアフガン人が車のアイドリングにより一酸化炭素中毒死したとされている。アメリカの軍事評論家は、犠牲者数をソ連兵・アフガン兵100人から200人としている[2]。
また当時この地域を旅していた旅行者は[信頼性要検証]、軍用燃料輸送車がトンネル内で爆発し、連鎖爆発が起きたと報告している。事故発生後も車やトラック、バスが次々とトンネルの中に入っていったが、爆発が敵軍の攻撃によるものであることを懸念したソビエト部隊がトンネルの両端を戦車で封鎖したことで、多くの人々がトンネル内に閉じ込められ、焼死したり窒息死したり、冬の寒さを和らげるためにアイドリングを続けて一酸化炭素中毒死したりした。結果として最大700人のソ連兵と2000人のアフガン兵・市民が死亡した可能性がある[3]。
なお、アフガニスタンの反乱軍は、この事故に関与していないと述べている[2]。
事故に先立つ1980年2月23日には、サラン峠トンネルで同様の事故が発生し16人のソ連兵が死亡している[4]。