サン・ド・ブフ釉薬

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サン・ド・ブフ盃が付いた18世紀の中国磁器のボウル。

サン・ド・ブフ釉薬、またはサン・ド・ブフは、18世紀初頭から中国の磁器に用いられ始めた、深紅の釉薬。名前はフランス語で「牛の血」の意であり、英語では「オックスブラッド(oxblood)」とも呼ばれる。

サン・ド・ブフは、「予測不可能だが、装飾性が高く変幻自在の効果」[1]が特徴とされ、多く開発された「フランベ」釉薬の一種であり、康煕帝時代(1662–1722)に景徳鎮窯で開発された[2]。ある学者によれば、「この壮麗な釉薬を用いた素晴らしい作品では、かすかにひび割れ無数の泡が散らされた澄んだ表層から、地の色が透けて見えるように思える」[3]

一般的な赤い釉薬と同じく、主な着色剤は酸化銅で、還元雰囲気で(酸素なしで)焼成されたものだが、それらを酸化性雰囲気に晒すことは仕上げ工程の一部であったかもしれない。19世紀後半以降、多くの西洋の陶工がこの釉薬を量産しようと長きにわたる実験を行ったが、作成も制御も技術的に困難を極めた[4]

18世紀の小さな花瓶、上部にいくにつれ釉薬が薄くなっている。

博物館や本によっては、「sang de boeuf」、「oxblood」という用語が、ハイフンや大文字小文字、斜体などのバリエーションを含んで用いられる[5]。この釉薬の中国名として最も一般的なのは郎窑红lángyáohóng、「郎窯の紅釉」)で[6]、他には牛血红niúxiěhóng、「牛の血のような紅釉」)とも呼ばれる[7]

明の模倣品としての起源

宣徳帝(1426–1435)の治世であることを示す印が付いた、明の「捧げもの」銅赤皿。康煕帝時代の陶工の目標となった。

サン・ド・ブフ釉薬は、「捧げもの(sacrificial)」 釉薬を復元すべく、1705年から1712年頃に開発されたとされる[8]。この釉薬は明王朝宣徳帝時代(1426–35)に景徳鎮で儀式に利用された有名な釉薬だったが、製法は失われ、作品も彼の退位後には極小数しか残らなかったことで有名だった。

大明会典によれば、明王朝初代の洪武帝による治世2年目の1369年から、皇帝が儀式を行う上で必要とされた捧げものにはこの単色の器が用いられるようになったため、「捧げものの赤(sacrificial red)」と呼ばれるようになった。中国語では鲜红(xiānhóng、「鮮やかな赤」)ないし宝石(bǎoshíhóng、「ルビーの赤」)と呼ばれた[7][9]。また、この法律は、各色が特定の方位と儀式に対応付けられるともしている。「各方位に対応する器を置きましょう。赤は太陽、青は天、黄色は地、白は月の祭壇へ」[10]

宣徳帝時代に開発された「捧げものの赤」は、彼の死後に生産されなくなった。多くの人が模倣を試みてきたものの、誰も成功していない。この事実は、皇帝が王家の陶器に興味を持っていたこと、一部の機密事項はごく限られた陶芸家のみが知っていただろうことを示唆する[11]

清のサン・ド・ブフ

サン・ド・ブフのような単色釉薬は、明朝や宋朝 (960–1279)の歴史的な中国陶磁器を最高のものとして復古を試みた清朝において、人気が復活した。これらは宮廷向けのものとして、既存のものとは完全に異なるスタイルで。景徳鎮で製造された。粉彩、緑の素三彩などの後世に開発された、主調色に基づいた配色を色絵英語版に用いる精巧なデザインを採用している。当初、これらの多くは売り物として生産されており、中国の輸出磁器英語版として宮廷からはよりシンプルな装飾が望まれていた[12]

宣徳帝の「捧げものの赤」はごく僅かにまだらな覆い方だったので、サン・ド・ブフは様々な影や色の種類がある。釉薬のまだら模様や縞模様は器の上の方では白く消えていくことが多いし、逆に花瓶の肩から足の部分にかけてはやや厚くなる。足は釉薬に覆われきっていないことも多い。また、薄く釉薬のかかった部分にはクラクリュール[13]や、緑がかった色合いが見られることもある。これらはすべて望ましい効果と考えられていた。通常、釉薬は閉じた形状の外側にのみ使用され、内側やリムには透明な釉薬のまま残る。赤い釉薬はおそらく吹付けられたと考えられる[14]。他にはターコイズ、ラベンダー、パープル色が現れうる[1]

非常に敏感な変数が多数あるため、最初は釉薬の色と効果をろくに制御することができず、そのランダム性は中国の美学にも影響を与えた。18世紀後半までは、より確実な制御ができるようになった[15]

西洋版

参考文献

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