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サンフアン移住地

ボリビア・サンタクルス県イチロ郡の基礎自治体、日本人移住地 From Wikipedia, the free encyclopedia

サンフアン移住地は、ボリビアのサンタ・クルス県にある日本人移住地である。サンフアン・デ・ヤパカニ(San Juan de Yapacaní)は、その入植地を中心とする基礎自治体である。1950年代に日本人移住者の入植が始まり、第二次世界大戦後の日本・ボリビア間の移住政策を背景として形成された。定住した移住者には、長崎県や福岡県など九州地方の出身者が多かった。移住地では農業を基盤として発展し、サンフアン農牧総合協同組合(CAISY)を中心に営農、インフラ整備、教育、医療などが支えられてきた。

中心地 サンフアン・デ・ヤパカニ
概要 サンフアン移住地 San Juan de Yapacaní, 国 ...
サンフアン移住地

San Juan de Yapacaní
サンフアン・デ・ヤパカニ
サンフアンのアルシビアデス・ベラルデ・クロネンボル広場
サンフアンのアルシビアデス・ベラルデ・クロネンボル広場
サンフアン移住地の位置(ボリビア内)
サンフアン移住地
サンフアン移住地
ボリビアにおける位置
座標:南緯16度59分00秒 西経63度58分00秒
国 ボリビアの旗 ボリビア
県 サンタクルス県
郡 イチロ郡(英語版)
中心地 サンフアン・デ・ヤパカニ
等時帯 UTC-4 (ボリビア時間)
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歴史

サンフアン・デ・ヤパカニへの日本人移住は、二つの経路で進められた。一つは、サトウキビの栽培と製糖工場の建設を目的とした実業家の西川利通による企業移民であり、もう一つは、第二次大戦後の荒廃した経済と過剰人口への対応策として日本政府とボリビア政府の間で交わされた移住協定による計画移住である[1][2]。

1952年のボリビア革命後、ビクトル・パス・エステンソロ政権は鉱山国有化、産業の多角化、農地改革などを進めようとしたが、十分な労働力を国内で確保できなかったため、他国からの移住者誘致に積極的だった[3]。一方、日本側にも復員兵問題、人口増加、失業者増加、食糧不足などを背景に海外移住を進めたい事情があり、ボリビアの東部低地開発と日本の移住政策が結びつく形でサンフアン移住が進められた[3]。

前者は1955年に入植を開始した88名の日本人で、「西川移民」と呼ばれている。その後、政府間の移住協定により1957年頃から移住が本格化した。西川移民の入植後、1956年8月2日に結ばれた日本・ボリビア移住協定に基づき、1969年まで計画移民が続いた[3]。1957年6月に第1次移住者が到着したが、事前の農業調査や移住地適地調査は十分ではなく、未整備の道路、雨季の長雨、深い森林などのため、開拓と営農は困難をきわめた[3]。その環境の悪さから、移住地は「犬も通わぬサンフアン」とも呼ばれた[3]。最終的に、サンフアンには1992年までに302家族、単身者50人を含む計1685人が移住した[3]。1982年の調査では、サンフアンに残った移住者の出身地は長崎県出身者が最も多く、次いで福岡県、高知県、佐賀県、北海道などが続いた[2]。

1965年には、移住地内の日系人を対象とした行政事務を扱う任意団体として「サンフアン村」が結成され、ボリビア政府に自治権を認められた[4]。2001年には、移住地を中心としたサンフアン市が国会承認を受け、2005年から自治政府として機能している[4]。

西川移民

第二次世界大戦前にジャワ島で製糖業を営んでいた西川利通は、戦後日本へ引き揚げて「大日本精糖会社」を設立したが、当時の製糖原料である甘蔗は政府からの割り当てだったため思うような事業ができず、海外へ移住者を送り出して砂糖きびの栽培に従事させることを計画し、外務省の助言によりボリビアを選択した[2]。西川は1950年に現地視察し、「サンタクルス日本人農業協同組合」の設立や移住者受け入れのための宿舎建設などの準備をし、帰国後、日本・ボリビア両政府の許可を得て、移住者を募集した[2]。

1955年5月15日、日本全国より選定された16家族98名がオランダ船テゲルベルグ号に乗船して神戸港を出発し、14家族88名が7月末にサンファン移住地に入植した[1][2]。原生林から手斧ひとつで開拓し、造った道路の両側に1家族50haの土地が与えられた[1]。米作を始めたものの生活するには不十分であったため携行した物資を処分して生活費に換えたが、この処分資金を農業協同組合が不正流用したことが発覚し、組合は解散、製糖事業計画は失敗に終わった[1]。無一文となった西川利通は1956年に家族を伴い帰国し、移住者は密林に放置された[1][2]。西川はのちに日本ミッションボトリングジュース社副社長となった[5]。

経済・社会

サンフアン移住地の経済は農業を基盤としている。1957年に設立されたサンフアン農協は、移住地内で当時存在した唯一の組織であり、農業の定着、インフラ整備、学校や診療所の運営、行政全般に関わった[3]。サンフアン農牧総合協同組合(CAISY)は、1957年8月20日にボリビアへ移住した日本人48名により任意組合として設立され、2007年に創立50周年を迎えた[6]。浅野茂は、現在のサンフアン移住地の発展には、日本・ボリビア両国の協力や支援に加え、移住初期から困難を乗り越え営農に取り組んだ移住者の努力、特に入植当初から行政・経済活動を牽引してきた農業協同組合とその役員の尽力が大きかったと述べている[2]。

移住地ではコメ、大豆、小麦、鶏卵などが生産され、ボリビア経済に貢献している[3]。浅野は、移住地の営農は焼畑農法による稲作から始まり、その後、養鶏、農業機械の導入、大豆栽培、柑橘類やマカダミアナッツ、肉牛、養豚などへ広がったと述べている[2]。1970年代からは養鶏業の定着と機械化が進み、農業経営は多角化と規模拡大により安定するようになった[3]。中島敏博は、サンフアン移住地について、サンタクルス県内のモデル農業地域の一つであり、東部低地開発の成功例として知られていると述べている[3]。

現在、移住地には約230世帯、約700人の日本人が居住し、サンフアン日本ボリビア協会が学校、診療所、高齢者福祉施設などを運営している[3]。移住地の発展に伴いボリビア人も多く移住し、市の人口は約9000人となった[3]。2014年から2016年にかけてサンフアン移住地で活動したJICA日系社会シニアボランティアは、移住当時20代、30代だった日系一世が高齢期を迎え、移住地でも高齢者福祉の基盤整備が課題になっていると報告している[7]。

文化

サンフアン移住地では、文化や習慣を継承するための取り組みが家庭や学校教育でも行われており、サンフアン学園では日本語教育も行われている[3]。国本伊代は、サンフアン移住地を含む東部低地の日本人移住地では伝統と文化を保持する努力が続けられており、8月のお盆には浴衣姿の男女が盆踊りに参加すると述べている[8]。中島敏博も、サンフアン移住地では盆踊りなどの日本文化の行事が活発で、各地区の自治会には日本の互助精神が引き継がれていると述べている[3]。

JICA日系社会シニアボランティアとしてサンフアン移住地で活動した横山勉は、移住地で大切に受け継がれている日本の行事として、運動会、盆踊り、敬老会を挙げている[7]。JICA海外協力隊員による2025年の記事では、サンフアン移住地の盆踊りについて、会場に櫓や提灯が設けられ、日本食の屋台が並び、最後には花火が打ち上げられたことが紹介されている[9]。また、サンフアンの盆踊りでは、東京音頭、八木節、炭坑節などのほか、移住地で作られたサンフアン音頭も踊られていると紹介されている[10]。

サンフアン移住地には、外務省のパンフレット『日本と中南米をつなぐ日系人』で「サンファン移住地移民資料館」と紹介されている移民資料館がある[11][12]。

脚注

関連文献

関連項目

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