ザカリーヤー・カズウィーニー
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ザカリーヤー・イブン・ムハンマド・アルカズウィーニー(アラビア語: زكرياء ابن محمد القزوينى, ラテン文字転写: Zakarīyā’ ibn Muḥammad al-Qazwīnī )、1203年 - 1283年)あるいはザカリーヤー・カズウィーニー(ペルシア語: زکریا قزوینی)は、ペルシア人の法学者、宇宙構造論学者、地理学者である[2][3]。「宇宙誌」として有名な2冊の書、博物誌『被造物の驚異と万物の珍奇 (アラビア語: عجائب المخلوقات وغرائب الموجودات)』及び地理書『諸国の遺跡と信者の情報 (アラビア語: آثار البلاد وأخبار العباد)』を編纂、執筆したことで知られる[4]。
カズウィーニーは、そのニスバが示す通り、現在はイランのカズウィーンで13世紀の初頭に生まれた[4][3]。カズウィーニーの一族は、古くからカズウィーンに定住していたが、祖先は有名な教友のアナス・ブン・マーリクの系譜でアラブに起源を持つ、とする説もある[3]。カズウィーニーは、モンゴルのペルシア侵攻に際して西方へ逃れ、モースルで法学、哲学を中心に、地理学、天文学、地質学、植物学、動物学なども学んだ[4][5]。哲学者・論理学者のアスィールッディーン・アブハリーや、歴史家のイブン・アスィールにも教えを受けたとされる。法学に精通し、ワースィトやヒッラなどイラクとペルシアのいくつかの都市で、裁判官を務めた。ワースィトでは、マドラサで教鞭もとっていたという[4]。
裁判官としての活動を辞めた後、カズウィーニーは知識の蒐集と学問の習得に勤しみ、メソポタミアやシリアなども旅した後、イルハン朝のバグダード太守アターマリク・ジュワイニーの庇護下に入った。カズウィーニーが編纂した博物誌『被造物の驚異と万物の珍奇』も、ジュワイニーに献じられたものである[5][2]。
業績

カズウィーニーが編纂、執筆した書として有名なものが、博物誌『被造物の驚異と万物の珍奇』と、地理書『諸国の遺跡と信者の情報』である。19世紀ドイツの東洋学者で、両書を編集しドイツで出版したヴュステンフェルトは、この二書を合わせて「宇宙誌」と呼んだ。これは、森羅万象の膨大な情報をとり上げ、それらを神の顕現とみなす著作ということで、カズウィーニーのものはそのような書の代表である[4]。これらの書には、カズウィーニーの博覧強記ぶりが表れている[2]。
『被造物の驚異と万物の珍奇』
『被造物の驚異と万物の珍奇』は、12世紀にアフマド・トゥースィーによって著された同名の書があり、カズウィーニーの書も共通の枠組みを用い、多くの引用を行うなど、トゥースィーの書から大きな影響を受けているが、カズウィーニーの書の方が知識の体系化や網羅性が徹底しており、より幅広い読者に浸透したことで、『被造物の驚異と万物の珍奇』といえばまずカズウィーニーの書が思い浮かべられることが多い[7][8][4]。
『被造物の驚異と万物の珍奇』は、カズウィーニーの知識の蒐集と学問の習得の帰結だが、これを編纂した動機は主に信仰心であり、あらゆる自然現象、森羅万象は称うべき神の御業であるとする世界観を表明し、読者の注意をそこへ向けようとしている[5][4]。
カズウィーニーの『被造物の驚異と万物の珍奇』は、一部の専門家向けではなく、より広範な読者層に向けて著された書であり、カズウィーニーは編纂者として、諸文献の記述をそのまま盛り込むのではなく、取捨選択し整理して矛盾や破綻を排し、議論が複雑化しないように努めている。同じ意図で、カズウィーニーの書には豊富な挿絵が挿入されており、多くの写本が作られ、広く流布した[4]。原典はアラビア語で著されたが、ペルシア語、トルコ語への翻訳も行われている[2][8]。
『諸国の遺跡と信者の情報』
『被造物の驚異と万物の珍奇』が博物誌であるのに対し、『諸国の遺跡と信者の情報』は主として地理学を扱っている。不可視のものも理解できるよう可視化を重視し、挿絵が豊富だった『被造物の驚異と万物の珍奇』とは対照的に、地理的情報を対象とする『諸国の遺跡と信者の情報』は、記述は具体性に富んでいるが、通常写本において挿絵は施されていない[4]。