シェール・アフガーン・ハーン
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もともと、アリー・クリー・ハーンはサファヴィー朝の君主イスマーイール2世に仕えていたが、その死後にイランからインドと移住した[1]。
その後、ムガル帝国の皇子サリーム(のちのジャハーンギール)に仕え、メーワール王国との戦争での軍功により、「シェール・アフガーン・ハーン」の称号を賜った。また、ベンガル地方西部のバルダマーンにジャーギールを与えられた。
一方、1594年にはムガル帝国の権臣ミールザー・ギヤース・ベグの娘ミフルンニサー・ハーヌム(のちのヌール・ジャハーン)とも結婚し、1605年には娘ラードリー・ベーグムが生まれた[2]。
シェール・アフガーン・ハーンは任地ベンガルに滞在していたが、その振る舞いによって、ベンガル太守クトゥブッディーン・ハーン・コーカの不評を買い、彼らは仲が悪くなっていった[3]。
1607年5月20日、クトゥブッディーン・ハーンがシェール・アフガーン・ハーンのもとに赴いていさめようとした際、両者は口論となって、シェール・アフガーン・ハーンは太守を殺害してしまった[3]。クトゥブッディーン・ハーンを殺した彼もまた、その場にいた衛兵に殺人者として処刑された[3]。
その後、1611年に妻のミフルンニサー・ハーヌムは皇帝となっていたジャハーンギールの妃となり、ヌール・ジャハーンの称号を得た[3]。