シノーペー包囲戦

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1214年11月1日
場所シノーペー(現トルコスィノプ
結果 ルーム・セルジューク朝の勝利
シノーペー包囲戦
東ローマ・セルジューク戦争英語版

シノーペーの城壁にアラビア語ギリシア語で刻まれたカイカーウス1世の碑文
1214年11月1日
場所シノーペー(現トルコスィノプ
結果 ルーム・セルジューク朝の勝利
衝突した勢力
トレビゾンド帝国 ルーム・セルジューク朝
指揮官
アレクシオス1世 (捕虜) カイカーウス1世

シノーペー包囲戦(シノーペーほういせん、ギリシア語: Πολιορκία της Σινώπης)またはスィノプ包囲戦(スィノプほういせん、トルコ語: Sinop Kuşatması)は、1214年にカイカーウス1世(在位: 1211年–1220年)率いるルーム・セルジューク朝トレビゾンド帝国領のシノーペー(現トルコ共和国スィノプ)を攻略、征服した戦い。アナトリア半島北岸に位置し黒海に面するシノーペーは、トレビゾンド帝国にとって重要な港湾都市であった。トレビゾンド皇帝アレクシオス1世(在位: 1204年–1222年)が敗れて捕虜となり、街は11月1日に降伏した。少し後の時代のルーム・セルジューク朝の年代記作者イブン・ビービー英語版が、戦いの模様を書き残している[1][2]

イブン・ビービーによると、アレクシオス1世がルーム・セルジューク朝の領土を侵していると報告を受けたカイカーウス1世は、シノーペーの征服を決断し遠征軍を組織した。カイカーウス1世と配下のベイたちはシノーペーに行ったことがある者を集めて計画を立て、長い包囲戦となることを覚悟した。ところがそこに、500人の兵を率いて狩りをしていたアレクシオス1世がルーム・セルジューク朝側の斥候部隊(他の話では遊牧民部隊)に襲われて捕虜となり、カイカーウス1世のもとへ送られてきた。カイカーウス1世はアレクシオス1世に皇帝の名のもとにシノーペー開城を呼びかけるよう求めたが、アレクシオス1世は拒否した。『サルジューク・ナーマ英語版』によれば、ベーラムという名の指揮官が率いる1000人の軍勢が海からシノーペー市街に切り込み、港の船を焼いてギリシア人や西ヨーロッパ人数人を殺した。その時点でシノーペーは降伏した[3]

一次史料ではトレビゾンド側の指揮官はアレクシオス1世であるとして一貫しているが、ヤーコプ・フィーリプ・ファルメライアー英語版をはじめとして、近代の歴史家の間からアレクシオス1世の弟で共同皇帝のダヴィド英語版がシノーペーの戦いを指揮し、ここで戦死したという認識が広まった。例えばアレクサンドル・ヴァシリーエフ英語版(1936)は「アレクシオス、すなわちトレビゾンドの初代皇帝の名の方がもちろん有名である......その弟ダヴィド、当時の実際のシノーペーの支配者よりは。しかしダヴィドの名は1214年以降に史料に登場しないので、ダヴィドはこのトルコ人の最初のシノーペー征服時に殺されたと結論付けることができるだろう。」と述べている[4]。ただ、より後の研究において、ダヴィドは修道僧となって亡命し、1212/13年にアトス山で死去していたことが明らかとなっている[5]

歴史的意義

脚注

参考文献

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