シビッラ・ディ・アチェッラ
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夫タンクレーディは、叔母である皇后コスタンツァとその夫神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と常に争っていた。皇帝ハインリヒ6世はタンクレーディの即位以来、シチリア王国の領有権を主張していた。1191年、ハインリヒ6世はシチリア侵攻を試みたが失敗し撤退し、コスタンツァは残されて捕らえられた。
タンクレーディは当初、コスタンツァをパレルモのシビッラ王妃の監督下に置き、シビッラと共に食事をし、シビッラの寝室で寝るようにさせた。シビッラは、タンクレーディがコスタンツァに礼を尽くすことに強く反対した。それは暗黙のうちにコスタンツァの領有権を認めることになると考えていたためであった。かつて対立したコスタンツァに対し、地元民が同情的であることに気づいたシビッラは、コスタンツァを処刑することを提案したが、タンクレーディは自身の人気が損なわれることを懸念し、コスタンツァを人質とすることはハインリヒ6世に休戦を迫る好機と捉え、同意しなかった。そこでタンクレーディの提案に従い、シビッラはコスタンツァをどこに幽閉するかについて宰相マッテオ・ダイエッロと協議し、シビッラの前でマッテオは手紙を書き、タンクレーディを説得して皇后コスタンツァをナポリの卵城(水に囲まれた島にある城)に幽閉させた。しかし、教皇ケレスティヌス3世の圧力を受け、タンクレーディは教皇の承認と引き換えにコスタンツァをローマへ送らざるを得なくなった。その途上、1192年の夏、コスタンツァはドイツ兵によって解放された。
1194年2月、タンクレーディは死去し、シチリア王位は幼い息子グリエルモ3世に継承され、シビッラは摂政となった[2]。シビッラはまた、8歳のグリエルモ3世に教皇ケレスティヌス3世が戴冠式を執り行えるよう尽力した[3]。1194年秋、ハインリヒ6世がメッシーナ海峡を渡った際、シビッラは、安全な場所に避難したグリエルモ3世がレッチェ伯領とターラント公国を保持するという協定を交渉した[4]。
シビッラは1194年のクリスマスにパレルモ大聖堂で行われたハインリヒ6世の戴冠式に参列した。この出来事の数日後、シビッラとその支持者であるサレルノ大司教ニッコロ・ダイエッロ(マッテオの息子)、そしてマルガリート・ディ・ブリンディジは、息子と娘たちと共にドイツで逮捕され、投獄された。シビッラと娘たちは修道院に入れられ、教皇インノケンティウス3世がハインリヒ6世にシビッラの釈放を嘆願する間にフランスへ逃れた[4]。シビッラの兄リッカルドはコスタンツァを捕らえたことに対する復讐としてハインリヒ6世によって絞首刑に処された。