初代パリカオ伯爵シャルル=ギヨーム=マリー=アポリネール=アントワーヌ・クーザン=モントバン(Charles-Guillaume-Marie-Apollinaire-Antoine Cousin-Montauban, 1er Comte de Palikao、1796年6月24日 – 1878年1月8日)は、フランス第二帝政の軍人、政治家。1860年にアロー戦争における八里橋の戦いに勝利したことで、皇帝ナポレオン3世によりパリカオ伯爵に叙された[1]。1870年、第二帝政末期に首相を務めた[1]。
1865年に第4軍団(英語版)司令官(リヨン駐留)に任命された[2]。1870年の普仏戦争では出陣しなかったが、緒戦の不利でエミール・オリヴィエ内閣が倒れると、摂政のウジェニー皇后により陸軍大臣および閣僚評議会議長(首相)に起用され、8月10日に就任した[2]。パリカオはパトリス・ド・マクマオン率いるシャロン軍(英語版)を14万人に増員し、メス攻囲戦の救援に送ったが、セダンの戦いでシャロン軍が降伏する結果に終わった[2]。皇帝ナポレオン3世が降伏すると、パリカオは独裁者となるよう進言を受けたが、これを拒否し、代わりに国防委員会を設立して自身がそれを率いるべきだと主張した[2]。もっとも、議論が終わる前に群衆が乱入したため、パリカオは結局ベルギーに逃亡した[2]。その後は帰国し、1871年に議会の査問委員会に出席した[2]。同年、首相としての経歴について『Un Ministère de la guerre de vingt-quatre jours』を著した[2]。