ウィーンで生まれた。弟に競馬やウィーンの上流階級の生活を描いたゴットフリート・ヴィルダ(Gottfried Wilda:1862-1922)がいる。ウィーン美術アカデミーでレオポルト・カール・ミュラーに学んだ。ミュラーはハンス・マカルトとともに、オーストリアにおける「オリエンタリズム」を代表する画家であった。ヴィルダはパリに修行した時にフランスの「オリエンタリズム」の画家、ウジェーヌ・フロマンタンにも学んだ[1]。
しばしばエジプトのカイロを訪れ、中東の人々の風俗を描いた作品は[2]、師のミュラーからその色彩の鮮やかさなどを賞賛され、ウィーンの有名な美術評論家のルートビヒ・ヘヴェシ(Ludwig Hevesi)はヴィルダをミュラーの後継者になると評した[3]。
1880年代からウィーンの定例展覧会やベルリンやミュンヘン、ドレスデンの国際展覧会に常時出展した[4]。1900年のパリ万国博覧会の展覧会にも出展した。
ウィーンで没した。別の「オリエンタリズム」の画家、ルドルフ・スヴォボダとはウィーン美術アカデミーでともに学んだ友人で晩年のヴィルダの肖像画を描いた[5]。没した年の秋にウィーン・キュンストラーハウスで追悼展が開かれた。