ベルリンのユダヤ人商家に生まれる。ベルリン王立美術学校およびベルリン工芸美術館付属学校で学んだ[1]。当時、女性が通える美術教育機関は限られており、男性向けの国立アカデミーに比べて教育水準は低く、授業料は高かった。
1901年、ロヴィス・コリントが開いた私立美術学校の最初の生徒となった。コリントはすぐに彼女の才能に注目し、恋愛感情を抱くようになる。1903年3月26日に結婚し、同年10月に長男トーマスが、1909年6月に長女ヴィルヘルミーネが生まれた。コリントは生涯で80点以上の妻の肖像画を描いた。
1906年からベルリン分離派の展覧会に出品を開始し、1912年に正式に会員となった。ケーテ・コルヴィッツと並び、ベルリン分離派の数少ない女性会員の一人だった[2]。
結婚後は夫の制作を支える側面が大きくなったものの、独立した芸術家としての活動も続けた[3]。1910〜20年代のベルリンの演劇界にも深く関わり、俳優マックス・パレンベルク、フリッツィ・マッサリー、ヴァレスカ・ゲルトらの挿絵や肖像画を手がけた。
1919年、コリントはヴァルヒェン湖畔のウルフェルトに家を購入し、夫婦はここで風景画や肖像画の制作に取り組んだ。1925年、コリントはオランダ旅行中に肺炎で死去。夫の死後、シャルロッテは遺作の整理と展覧会の企画に尽力するとともに、ベルリンに自らの絵画教室を開設し[4]、独立した芸術家として活動を本格化させた。
ユダヤ人としてナチス政権下での迫害に直面し、1933年にアメリカに亡命。すでにニューヨークに暮らしていた息子トーマスを頼った。ニューヨーク57丁目近くの西58丁目68番地にアトリエを構え、個人指導も行った[5]。1930年代から60年代にかけて、クレーマン・ギャラリー、クネドラー商会など、ニューヨークの名門画廊で複数の個展を開催した。1958年には夫ロヴィス・コリントの全作品目録を出版し、これは今日でも標準的な参考文献として使われている。1967年1月10日、ニューヨークにて86歳で死去。ベルリン国立美術館での個展開幕の直前だった[6]。