ジェイソン・リー (伝道師)
From Wikipedia, the free encyclopedia
ルーシー・トンプソン
ジェイソン・リー Jason Lee | |
|---|---|
|
ジェイソン・リー | |
| 生誕 |
1803年6月28日 |
| 死没 |
1845年3月12日(41歳没) |
| 配偶者 |
アンナ・マリア・ピットマン(1837年 - 1838年) ルーシー・トンプソン |
| 教派 | メソジスト |
ジェイソン・リー(Jason Lee, 1803年6月28日 - 1845年3月12日)は、アメリカ合衆国の伝道師、開拓者である。メソジスト監督教会によるオレゴン宣教師団の第一人者であり、当時イギリスとアメリカが共同統治していたオレゴン・カントリーにおいてアメリカの入植に重要な役割を果たした。
伝道

1832年、ネズ・パース族とフラットヘッド族インディアンの者4名がミズーリ州セントルイスを訪れ、フラットヘッド族の人々にお告げの中で予言された「神の書」を携えた誰かを送ってくれるよう、元ミズーリ州知事のウィリアム・クラークに要請した[1]。リーはこの話をアカデミー時代の恩師ウィルバー・フィスクから聞き、甥のダニエルとともにフラットヘッド族に向けた宣教師団に志願した。1834年初め、リーとその1隊はアメリカの商人ナサニエル・ワイエスとともにミズーリ州インディペンデンスを出発し、山岳地を旅して、ハドソン湾会社の毛皮交易拠点が置かれていたバンクーバー砦(現在のワシントン州バンクーバー)に到着した。ハドソン湾会社の代理人ジョン・マクローリンは、リーたちが内陸にあるフラットヘッド族の土地まで進むことに反対し、代わりに砦近くのウィラメットバレーを勧めた。リーたちは結局、ウィラメットバレー内にある現在のオレゴン州セイラム北西の土地に入植した。そこにはハドソン湾会社に雇われていた12人前後のフランス系カナダ人開拓者と、彼らの妻である先住民女性たちがいた。
リーの伝道所を最初に訪れたアメリカ合衆国の代表者は、海軍大尉ウィリアム・A・スレイカムであった。スレイカムを迎えたマクローリンの仲介で、リーはスレイカムとシャンプーイーで面会し、ウィラメットバレーで飼育されている家畜について話し合った。当時、オレゴンの家畜はすべてハドソン湾会社の所有であり、入植者は限られた数の家畜を同社から借用していた。この状況に風穴を開けるため、スレイカムはアルタ・カリフォルニアから牛を輸入することをリーに提案した。こうして、1837年にウィラメット牛会社 (Willamette Cattle Company) が設立され、600頭がカリフォルニアからウィラメットバレーに到来した。
その後、ウィラメット牛会社にも参加していた地元の有力者ユーイング・ヤングの死去に伴い、ヤングが所有していた広大な地所の帰属が問題になったことをきっかけに、1841年から1843年にかけて数回の会合がシャンプーイーで開催された。リーはコロンビア川以南の全住民が所属する政体の設立を提唱したが、これは当時この地域のカトリック系開拓者に影響力をふるっていたオレゴン司教総代理のフランソワ・ノルベール・ブランシェと、それを経済的に支援していたハドソン湾会社との関係を断って、ハドソン湾会社の影響力を弱めることが主眼にあった。また、リーの宣教師団が同社に借金があったことも理由のひとつであった。だが、後にリーは独立政府を組織することが必ずしもオレゴンのためになるものではないと考えるようになり、シャンプーイー会合からは距離を置くようになった。
アメリカ本土の教会本部との連絡の遅れのため、リーはいったん教会本部に戻り、宣教師団の活動について詳細に報告する必要に迫られた。1838年、リーは教会本部で幹部と面会し、鍛冶職人や機械工の雇い入れ、製粉所の設置、農作物の生産拡大などの計画について承認を得た。一方、リーはウィラメットバレーの住民たちから寄せられた「アメリカ合衆国がコロンビア川以南のオレゴン・カントリーを統治する」との意見書も携えており、これはミズーリ州選出の上院議員ルイス・F・リンによってワシントンD.C.の合衆国議会に提出された。リーは宣教師団の資金集めのためアメリカ国内各地で講演活動を行ったのち、1840年にオレゴンに戻った。
しかし、こうした活動のために先住民族に対する宣教をなおざりにしていると取られたことや、宣教師団の会計が不透明であった問題もあって、宣教師団代表としてのリーの資質を疑問視する声が強くなり、リーは教会から代表を解任された。弁明のため、リーは1844年にニューヨークに赴いて教会幹部と面会したが、代表再任には至らなかった。
