ベルギー、ワロン地域のナミュールで役人で、後にサン=ジルの市議会議員となった人物の息子に生まれた。弟のフェルナン・ベルニエ(Fernand Bernier (1864-1929)はジャーナリストになり後にサン=ジルの市長になった。
ナミュールの学校で学び、学校の美術教師であった風景画家のフェルナン・マリヌス(Ferdinand Marinus; 1808-1890) に絵の才能を見いだされて、1880年からブリュッセルの風景画家ミシェル・ヴァン・アルファン(Michel Van Alphen)に学んだ。1883年にブリュッセル王立美術アカデミーに入学し、1888年までジャン=フランソワ・ポルテールやジョゼフ・スタラールト、ジョセフ・ファン・セーフェルドンクらの指導を受けた[1][2]。
ブリュッセルの鉄道馬車の会社(Compagnie brésilienne des Tramways bruxellois)で働き、ブリュッセルの新聞「L'Étoile belge」の編集長アルフレッド・マドゥー(Alfred Madoux)と知り合い、オーデルゲムの軍の厩舎やベルギー軍の騎兵偵察連隊(régiment des Guides)のスケッチをすることができた。これを元に1887年に騎兵を描いた「La Charge des Guides」という作品を制作した。獣医学校で解剖学を学ぶことで、乗馬の技術や馬を描くことに習熟した[1]。1898年に獣医学校の科学雑誌の挿絵を描いた[3]。
1887年5月に、印象派の画家のケティー・ジルソール=ホッペの妹のジェニー・ホッペ(Jenny Bernier-Hoppe: 1870–1934)と結婚した[4]。1904年から、イクセルに住んだ。
1892年から「Salons triennaux belges」という展覧会に出展し、1893年にブリュッセルに創立されら美術家グループ「Le Sillon」の共同創設者になった。1893年に開催された最初のグループ展の批評で、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンはベルニエに言及しベルギーの最も重要な動物画家の一人と評した[5]。
競走馬や馬主に熱心に関わり、エノー州のレール=エ=フォストー(Leers-et-Fosteau)のジュール・ハザール(Jules Hazard)の競走馬牧場で多くの作品を描いた。「Mercure」や「Brin d'or」、「Faucille」、「Rêve d'or」といった競走馬の絵や所有場に騎乗した馬主の絵を描いた[6]。ドッグ・ショーに行くのも好んだ。1900年11月に国王レオポルド2世に作品が買い上げられた。
ブリュッセル路面電車(Tramways bruxellois)や障害飛越競技会やブリュッセルの馬車レースなどの数多くのポスターをデザインした。風景画や海洋画も描いた。
1918年にイクセルで亡くなった。息子のルネ・ベルニエ(René Bernier: 1905-1984)は作曲家として知られている[7]。