ジェリー・ローリングス
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ジョン・アッタ・ミルズ(1997年1月7日 - 2001年1月7日)
| ジェリー・ローリングス Jerry Rawlings | |
| 任期 | 1993年1月7日 – 2001年1月7日 |
|---|---|
| 副大統領 | カウ・ンケンセン・アルカー(1993年1月7日 - 1997年1月7日) ジョン・アッタ・ミルズ(1997年1月7日 - 2001年1月7日) |
| 任期 | 1994年 – 1996年7月27日 |
| 事務局長 | エドゥアール・バンジャマン |
| 任期 | 1981年12月31日 – 1993年1月7日 |
| 任期 | 1979年6月4日 – 1979年9月24日 |
| 出生 | 1947年6月22日 |
| 死去 | 2020年11月12日(73歳没) |
| 政党 | (無所属→) 国民民主会議 |
| 受賞 | |
| 出身校 | アキモタ大学 |
| 配偶者 | ナナ・コナドゥ・アギェマン (1977年 - 2020年) |
| 子女 | 4人(1男3女) |
| 宗教 | キリスト教カトリック[1] |
ジェリー・ジョン・ローリングス(英語: Jerry John Rawlings, 1947年6月22日 - 2020年11月12日)は、ガーナの軍人、政治家。同国第4代(第四共和政初代)大統領。同国第8・10代国家元首。

アクラ出身でスコットランド人の父:ジェームズ・ラムゼイ・ジョン(1907-1982)とガーナ人の母:ビクトリア・アボトゥイ(1919-2020)の間に生まれた[2][3]。 ガーナ空軍大尉だった1979年に軍事クーデターでフレッド・アクフォ軍事政権を打倒し、軍事革命評議会(AFRC)議長に就任[4]。第8代国家元首となったもののすぐに民政移管をおこない、ヒラ・リマン大統領に政権を移譲する。しかし、リマン政権は機能不全を起こし、経済の停滞が続いたため、1981年に2度目のクーデターを起こし、今度は長期軍事政権を布いた。
ローリングスは、当初社会主義を志向したものの、やがて1983年以降構造調整を実施し、ガーナ経済は年率5%程度の安定成長を遂げるようになり、これによって政情も安定した。
1992年、民主化を実施し、複数政党制を導入。大統領選挙では政情の安定及び経済発展を評価され、第4共和政の初代大統領に就任[5]。1996年の選挙でも大勝するも、憲法の三選禁止の規定により、2000年の大統領選挙には出馬しなかった。
2020年11月12日に首都アクラの病院で73歳で新型コロナウイルス感染症により死去[2]。同年9月に母のビクトリアが101歳で没しており[6]、その葬儀の際に感染したとされている[3] 。
政権運営と政治姿勢
ローリングスは大統領に在任中『民衆がエリートに押しつぶされたなら、軍隊は民衆に自由を与えるべきだ』と述べていた。彼の政治的立場は、軍部出身でありながらエリートや階級構造、政府高官らの汚職や腐敗を批判するポピュリズム、大衆迎合的な物であったとされる。また、白い服を着用し、大柄な体格、顎髭、サングラス姿で住民と話し合うその様は「よく響く太い声でクマのような大男」とさえ呼ばれ、その親しみやすさから現在でもガーナの現代史に深い影響を与えている。ローリングスのそういった姿勢は、ブルキナファソの革命家トーマス・サンカラ、ギニアの暫定大統領であるママディ・ドゥンブヤにも影響を与えた。
在任中にはクワメ・エンクルマが推進した反帝国主義的な外交政策を行い、かつ反米的な物であった。内政面でも、当初は左派的な政策を実施したが、1983年以降は構造調整やIMFからの借款で経済を建て直した。