ジェームズ・ジョホノット
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| ジェームズ・ジョホノット | |
|---|---|
| 誕生 |
James Johonnot 1823年3月3日 バーモント州ウィンザーベセル |
| 死没 |
1888年6月10日(65歳没) フロリダ州ターポン・スプリング |
| 職業 |
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| 国籍 |
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| 最終学歴 | オールバニ州立師範学校 |
| 代表作 |
Ten Great Events in History Principles and practices of teaching |
ジェームズ・ジョホノット(James Johonnot、1823年3月3日[1] – 1888年6月10日[2])は、アメリカ合衆国の教育者、教育学者、作家。実用主義・自然主義に基づく科学的な教育理論をもって開発的教育を普及させた[3][4]。
1823年、アメリカ合衆国バーモント州のベセルに生まれる[5]。
先祖は、ナントの王令の廃止の際にフランスを逃れアメリカに亡命した新教徒(ユグノー)で、父親は村で牧師を務めていた。子供の頃は体が弱く、他の兄弟のように外で遊ばず、家にある豊富な蔵書に目を通し、文学や歴史への興味を深め、詩文の中から気に入った文句を記憶していったという[3]。
ウィンザー (バージニア州)のニューイングランド神学校に通ったのち[5]、1848年ニューヨーク州オールバニの師範学校を卒業。5月、市に昇格したばかりのシラキュース市で、1地区の公立学校(のちのジェファーソン・スクール)の教師に任命される[3][6]。 翌年1849年には、校長に就任[6]。校長就任にあたっては、編集に携わっていた週刊誌「The Literary Union(文学連盟)」との関係解消を止むなくされたが[6]、1850年には、ニューヨークの出版社「D. Appleton & Company(D・アップルトン・アンド・カンパニー)」と新たに代理人契約している[5]。1853年3月から1854年9月6日まで別の学区の校長も務めながら[6]、ニューヨーク州の教員協会の指導者となり[5]、ニューヨーク州にある師範学校の指導監督の任にあった[7]。
南北戦争中は、健康上の理由から従軍せず、1861年から1866年まで、イリノイ州ジョリエットの高校で校長をしていた[7][5][3]。
1872年に、ミズーリ州ウォレンズバーグの師範学校の学長に選出され、1875年まで3年間勤めた[5][8]。
1875年から1年間、ニューヨーク州デポジットの教区教育長の任にあたった後、ニューヨーク州中部のイサカに転居し、1880年からは、1877年にイサカで結婚した娘マリアン(Marian Johonnot)の夫で、プリンストン大学に勤務する鳥類学者のウィリアム・アール・ドッジ・スコットのニュージャージー州プリンストンの家に一緒に住んだ[5][9]。
1881年には、ニューヨーク州の公立学校長より、州教育委員会の指導役4名の内の1人として指名された。教育委員会については、シラキュースの所属するオノンダガ郡の会合に1846年から1861年まで毎回出席し、1850年からは運営に携わっていた[3][5]。
1888年6月10日、フロリダ州ターポン・スプリングで逝去[3][2]。