ジェームズ・マレー (生物学者)
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マレーは、グロサリーを営んでいた父ウィリアム・マレー (William Murray) とその妻ジャネット・マレー (Janet McMurray) の息子として、グラスゴーのシャーロット・ストリート (Charlotte Street) 50番地に生まれた。グラスゴー大学で動物学を学び、併せてグラスゴー美術学校で美術の授業も受講した[2]。
1902年、彼は、海洋学者サー・ジョン・マレーの助手役としてスコットランドの淡水湖(ロッホ)の水深測量調査に参加した。ジェームズ・マレーは、このとき生物学調査と水深測量調査の両方を実施した[3]。特に、緩歩動物や、輪形動物のヒルガタワムシ綱の採集に貢献し、輪形動物113種、緩歩動物66種についての記載をおこなった。
1907年7月、彼はエディンバラ王立協会のフェローに選ばれた。推薦者は、サー・ジョン・マレー、ジョージ・クリスタル、ジェームズ・バージェス、トマス・ニコル・ジョンストンであった。1909年から1911年にかけて、マレーは協会のニール賞 (Neil Prize) を与えられた[2]。
1907年、41歳のとき、マレーはアーネスト・シャクルトンが率いたニムロド遠征に、ベースキャンプ担当として加わった。1913年には、この遠征についてまとめた書籍『Antarctic Days』を、同僚のジョーイ・マーストンと共著した[4]。
1911年、46歳のとき、マレーは探検家パーシー・フォーセット、ヘンリー・コスティン (Henry Costin)、ヘンリー・マンレイ (Henry Manley) とともに、ペルーとボリビアの国境地帯のジャングルを探検と地図作成を目指した。しかし、マレーは熱帯の厳しさに適応することができず、事の成り行きは芳しくなかった。結局、フォーセットはマレーを遠征隊から外すことになったが、それほど彼の状態は悪かった。しばらくの間マレーは身を隠し、タンボパタのとある家で体調の回復を待った。1912年に、彼はラパスに達したが、そこで自分が死んだものと思われていたことを知った[5]。
フォーセットの下での酷い扱いに怒っていたマレーは、訴えを起こそうとしたが、王立地理学会の友人たちがそのようなことをしないよう説得した。
1913年6月、マレーはカナダの南極科学遠征隊に加わり、カーラックの不運な最後の航海に海洋学者として乗船した。1913年8月、船は南極海で氷に閉ざされた。マレーは、船長に対して反乱を起こし、他の3人とともに船を離れて氷上を出発した。彼ら4人のその後については何もわかっていない。
マレーは、おそらくは1914年2月に、南極で死んだものと考えられている。
家族
マレーは、1892年に、メアリ・ライオール (Mary Lyall) と結婚した。
大衆文化の中で
映画
- 2016年の映画『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』の中では、アンガス・マクファーデンがマレーを演じた。
