ジェームズ・マレー (生物学者)

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アデリーペンギンの雛を抱いたジェームズ・マレー(ニムロド遠征)。

ジェームズ・マレー博士(Dr James Murray FRSE1865年7月21日 - 1914年2月)は、グラスゴー生まれ[1]生物学者探検家

マレーは、グロサリーを営んでいた父ウィリアム・マレー (William Murray) とその妻ジャネット・マレー (Janet McMurray) の息子として、グラスゴーのシャーロット・ストリート (Charlotte Street) 50番地に生まれた。グラスゴー大学動物学を学び、併せてグラスゴー美術学校で美術の授業も受講した[2]

1902年、彼は、海洋学サージョン・マレーの助手役としてスコットランドの淡水湖(ロッホ英語版)の水深測量調査に参加した。ジェームズ・マレーは、このとき生物学調査と水深測量調査の両方を実施した[3]。特に、緩歩動物や、輪形動物ヒルガタワムシ綱英語版の採集に貢献し、輪形動物113種、緩歩動物66種についての記載をおこなった。

1907年7月、彼はエディンバラ王立協会英語版フェローに選ばれた。推薦者は、サー・ジョン・マレー、ジョージ・クリスタル英語版ジェームズ・バージェス英語版トマス・ニコル・ジョンストン英語版であった。1909年から1911年にかけて、マレーは協会のニール賞 (Neil Prize) を与えられた[2]

1907年、41歳のとき、マレーはアーネスト・シャクルトンが率いたニムロド遠征に、ベースキャンプ担当として加わった。1913年には、この遠征についてまとめた書籍『Antarctic Days』を、同僚のジョーイ・マーストン英語版と共著した[4]

1911年、46歳のとき、マレーは探検家パーシー・フォーセット、ヘンリー・コスティン (Henry Costin)、ヘンリー・マンレイ (Henry Manley) とともに、ペルーボリビアの国境地帯のジャングルを探検と地図作成を目指した。しかし、マレーは熱帯の厳しさに適応することができず、事の成り行きは芳しくなかった。結局、フォーセットはマレーを遠征隊から外すことになったが、それほど彼の状態は悪かった。しばらくの間マレーは身を隠し、タンボパタ英語版のとある家で体調の回復を待った。1912年に、彼はラパスに達したが、そこで自分が死んだものと思われていたことを知った[5]

フォーセットの下での酷い扱いに怒っていたマレーは、訴えを起こそうとしたが、王立地理学会の友人たちがそのようなことをしないよう説得した。

1913年6月、マレーはカナダ南極科学遠征隊に加わり、カーラック英語版不運な最後の航海英語版海洋学者として乗船した。1913年8月、船は南極海で氷に閉ざされた。マレーは、船長に対して反乱英語版を起こし、他の3人とともに船を離れて氷上を出発した。彼ら4人のその後については何もわかっていない。

マレーは、おそらくは1914年2月に、南極で死んだものと考えられている。

家族

マレーは、1892年に、メアリ・ライオール (Mary Lyall) と結婚した。

大衆文化の中で

著作

脚注

関連文献

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