ジミー・ブラントン
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James Blanton
| ジミー・ブラントン Jimmie Blanton | |
|---|---|
| 出生名 |
ジェイムズ・ブラントン James Blanton |
| 生誕 |
1918年10月5日 |
| 死没 |
1942年7月30日 (23歳) |
| ジャンル | ジャズ、 ビッグバンド |
| 職業 | ミュージシャン |
| 担当楽器 | ダブルベース |
| 活動期間 | 1936年 – 1941年 |
ジェイムズ・ブラントン(英語: James Blanton 1918年10月5日 - 1942年7月30日)はアメリカのジャズ・ベーシストである。ブラントンはジャズの文脈において、彼に先行するベーシストたちよりも複雑なピッツィカート奏法およびアルコ奏法を用いたベース・ソロの創始者であるとされている。「ジミー(Jimmie)」という愛称を付けられていたが、たいていの者は「ジミー(Jimmy)」と綴り間違いをしており、それはデューク・エリントンも例外ではなかった。
その後の人生とキャリア
ブラントンは1938年に大学を卒業し、セントルイスでジーター=ピラーズ楽団に加入すると、フルタイムで演奏するようになった[2]。ブラントンは1939年10月にデューク・エリントン楽団に加入した。当時、エリントン楽団はセントルイスに滞在しており、楽団のメンバーは地元の深夜ジャム・セッションでブラントンの演奏を耳にし、惚れ込んだのだった。エリントンはブラントンと出会ったその夜に楽団員の仕事を申し出た[2]。その年の11月22日に「Blues」と「Plucked Again」の2曲を録音し、これらは初めて商業的に録音されたピアノとベースのデュエットであった[2]。1940年にはデュエット録音をさらに行ない、またブラントンの演奏はエリントン楽団の演奏曲でも大きく取り上げられた[2]。1940年5月、エリントン楽団はブラントンの卓越した技巧を聴きどころにした「Jack the Bear」や「Ko-Ko」などのヒット曲を録音した。エリントン楽団が行く先々で、ブラントンはたちまち町の評判となった。彼は演奏技術の向上に極めて熱心であり、常に練習に打ち込んでいた。ブラントンは巡業に出ているときには、その土地々々の楽団のベース奏者たちと交流を深めた。また特に、テナーサックス奏者のベン・ウェブスターとは親しい友人関係を築いていた。ウェブスターもブラントンと同じくエリントン楽団に加入したばかりだったのである。
エリントンは毎晩、ブラントンを演奏壇の前面中央に配置した。当時のベーシストとしては前代未聞のことであった。それほどまでに当時のエリントン楽団にとってブラントンは重要であったのであり、テナーサックス奏者のウェブスターとともに、エリントン楽団は非公式にはブラントン=ウェブスター・バンドとして知られるようになった[2]。ブラントンは1940年から41年にかけて、バーニー・ビガード、レックス・スチュワート、ジョニー・ホッジスおよびクーティ・ウィリアムスが主導する「小編成グループ」のセッションにおいても演奏した。
「ブラントンはバップ・スタイルの始まりに貢献したとされるジャズ・クラブ、ニューヨークのミントンズ・プレイハウスで行われた非公式なジャム・セッションの幾つかにも参加した」[3]。それらのセッションの幾つかにはギタリストのチャーリー・クリスチャンも居合わせており、ブラントンとクリスチャンは友人であったと言われている。
1941年の夏のあいだ、エリントン楽団は画期的なレヴュー「ジャンプ・フォー・ジョイ」を公演中だった一方、ブラントンは結核の症状を示し始めた。1941年後半、病状は次第に悪化して行き、11月にはエリントン楽団を去り、フルタイムの医療ケアを求めることを余儀なくされた。ブラントンは1942年7月30日、カリフォルニア州ドゥアルテのサナトリウムにおいて、23歳で亡くなった[4][5]。
演奏スタイルと影響
ジーター=ピラーズ楽団在籍時に、ブラントンはジャズにおけるベース奏法に、クラシック音楽のピッツィカートやアルコといったテクニックを付け加え、ベースにより一層ソロ楽器としての地位を与えた[2]。その一方、エリントンとの演奏では、ブラントンはジャズにおけるダブルベースの使われ方に革命をもたらした[5]。ブラントンの高度な技術は彼を先行するベーシストたちとは別格の存在にし、ジャズ・ベースにおける最初の巨匠に押し上げ、ソロ楽器としてのベースの可能性を証明した[5]。「彼の指先は実に巧みで、演奏の幅が広く、トーンの丸み、正確なピッチ、そして何よりも無類のスウィング感を備えていた」[3]。彼は「伴奏のベースラインに非和声音の通過音を多数加えて、対位法的な趣を付与し、ソロ奏者たちに刺激を与えることによって、彼ら独自の和声上の探究に導いた」[3]。ブラントンの独創性は他のミュージシャンたちによって発展させられ、ビバップのリズム・セクションの礎となった[3]。