ジャコモ・グロッソ
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トリノ県のカンビアーノで大工の家の11人兄弟の9番目の息子に生まれた。ジャヴェーノの神学校で学んだ後、カンビアーノ市の奨学金を得て、1873年にトリノの美術学校アッカデミア・アルベルティーナに入学し、アンドレア・ガスタルディ(1826-1889)に学んだ。1882年のトリノの美術振興協会展(Esposizione della Società di Incoraggiamento alle Belle Arti)で画家としてデビューし、1884年のトリノのイタリア総合美術展(Esposizione generale italiana)に参加した。1885年に結婚し、2人の子供をもうけた。 1889年から母校のアッカデミア・アルベルティーナで教師として働き1905年に教授となった。
肖像画家として、多くの有力者の肖像画を描いた。煽情的な裸婦画を描いたことでも知られており、1895年のヴェネチア・ビエンナーレに出展した作品や 1896年の作品などは論議を呼んだ。1901年に南米に旅した後、アルゼンチンから注文を受けるようになり、1910年にブエノスアイレスで開かれた、アルゼンチン建国百周年記念式典のために、マイプの戦いのパノラマ画も制作した[1]。
1926年に美術雑誌「 L'arte decorativa moderna 」を創刊した彫刻家のレオナルド・ビストルフィの監修で54点のグロッソの作品を展示した展覧会がミラノで開かれた。ファシズム時代の1929年に上院議員に任命され、国からも多くの注文を受けた[2]。1936年にトリノで開かれた個展には、15日間で12万人の来場者が集まったとされる。
1938年にトリノ没した。グロッソの教えた学生には、カルロ・ガウディーナ(Carlo Gaudina: 1878-1937)やロモロ・ベルナルディ(Romolo Bernardi: 1876-1956)、フェリーチェ・カレーナ(Felice Carena: 1879-1966)、アルテューロ・コンテルノ(Arturo Conterno: 1871-1942) やアルゼンチンからの学生、エルネスト・デ・ラ・カルコヴァ(1866-1927)らがいる。