1930年、セントルイスで末っ子の三男として生まる。
1951年から53年まで朝鮮戦争の間、伍長として軍務についた。韓国従軍記章・国連従軍記章(国連メダル)を受賞した。
軍務の間もパートナーのキャリル・ジョーンズと、フィギュアスケート競技を続けた。1951年全米ジュニア選手権のペア、アイスダンス競技で優勝した[3]。
1952年の東部地区選手権のペアで優勝した[4]。同年の世界選手権でペア8位となった。
休暇の際は、大阪梅田のリンクで滑っていた。1953年の全日本フィギュア選手権に京都クラブ所属で出場し、男子シングルで優勝した[5]。これは、本選手権大会で初の外国人選手の優勝となった。優勝後、日本スケート連盟にフリー1位の選手にへと寄付をし、連盟はこの寄付金でジョスト杯を作成した。このカップは、全日本フィギュアスケート選手権の男子シングルのフリースケーティング1位の選手に贈られた。少なくても、1957年から佐藤信夫が10連覇するまで続いた[6]。
1953年除隊し、競技も引退した。引退後はセントルイスFSCのコーチになった[7]。