ジャック・ギボンズ
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ギボンズはイングランドに生まれた。父は科学者で[4]、母は視覚アーティストだった[5]。ストックトン=オン=ティーズでピアノの学習を始めた彼は後にオックスフォードに移って研鑽を積んだ。10歳から公開演奏を行うようになる。1979年にロンドンデビューを飾り[6]、この時17歳だったギボンズはこの演奏会に『ピアノ独奏のための協奏曲[5]』と『序曲』というオール・アルカン・プログラムで臨んでいる。20歳でニューポート国際ピアノコンクールでBBCウェールズ・ナショナル管弦楽団とベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を演奏して1等賞を獲得した[6]。1984年のクイーン・エリザベス・ホールデビューではバッハの『ゴルトベルク変奏曲』、ショパンのピアノソナタ第2番、ラヴェルの『夜のガスパール』を演奏し、『タイムズ』紙からはギボンズが「イーヴォ・ポゴレリチに対するイギリスの回答となり得る」と評された。以降、世界の名高い会場や音楽祭へソロ、協奏曲の独奏者として出演してきている。
1990年から2005年の16年間、自動車事故で重傷を負った2001年を除き、ギボンズはロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで毎年オール・ガーシュウィン・コンサートを開催している[5]。ギボンズはこのコンサートにおいて、ガーシュウィン自身の即興演奏や自作自演の録音における全ての音符の採譜と再現を目玉として取り組んでいた[7]。16年間の取り組みの中で、彼は少なくとも48作品のガーシュインの原典版となる作品を再現して初演した。1994年からは同様のオール・ガーシュウィン・コンサートをニューヨークのマーキン・ホール、アリス・タリー・ホール、カーネギー・ホールで開催している。
ギボンズは1992年に自身初となる録音をハイペリオン・レコードに行った(コンスタント・ランバートの『リオ・グランデ』)。この録音はグラモフォン・アワードへノミネートされるとともに、『ペンギン・ガイド』誌の3つ星ロゼットに輝いた[8]。1992年から1997年にかけて録音した『The Authentic George Gershwin』と題したCD4枚組では音楽リテーラー賞を受賞した。このCDはイギリスのASVレコードから出されたもので、『クラシックCD』誌には「ガーシュウィンの天賦の才に対する唯一の証言」であると評された[9]。
1995年1月のオックスフォードで、ギボンズは初めてひとつのコンサートの中でアルカンの『短調による12の練習曲』全曲演奏を達成した(翌年にはクイーン・エリザベス・ホールで再演された)。彼は同じ月にこの作品の初録音をASVレーベルに行っており、これは『グラモフォン』誌から「私がこれまでに音盤で聞いた中でも指折りに爽快な離れ業のピアニズム」との評を受けた[10]。同年8月27日にはロイヤル・アルバート・ホールでガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を演奏してBBCプロムスデビューを果たしており、BBCからは「当代のガーシュウィン弾き」と呼ばれた[11]。1997年にはガーシュウィン生誕100周年を前にBBCへガーシュウィン特集を執筆して提供しており、俳優のベン・キングズレーがガーシュウィンの声を担当した[12]。
2001年、ギボンズは自動車事故により重傷を負った。この事故とリハビリは新聞、テレビ、ラジオから大きな注目を集め、『サンデー・タイムズ』紙、『グラモフォン』誌、BBCなどでは特集が組まれた。『デイリー・エクスプレス』紙のマイケル・チャーチは、事故後にギボンズが演奏会へと復帰を遂げたことに関して「奇跡的」であり「根性がある」と述べた。この重大事故があって以降、ギボンズは演奏家としてのキャリアに代えて次第に作曲へと関心を傾けていくことになる。幼少期に作曲で成功していた彼であったが、演奏活動のために25年間にわたり作曲から距離を置いていたのである。その後、ギボンズの作品はニューヨークのカーネギー・ホール、ロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで演奏され、BBCによる録音も実施された[13][14]。ギボンズは2025年5月までに50曲を超える歌曲と合唱作品、50曲のピアノ独奏曲[15]、2つの弦楽オーケストラのための作品を書いている。
ギボンズは作曲活動の傍ら演奏活動も継続している。2007年3月には、1857年にパリでアルカンの『ピアノ独奏のための協奏曲』が出版されて150周年となることを祝し、この作品のカーネギー・ホール初演を行った。オックスフォードでの演奏も継続しており、同市では1988年に開始して以来休むことなく夏のピアノ音楽祭を毎年開催している[16]。2010年6月にはアメリカ合衆国ウェストバージニア州に所在するデイヴィス・アンド・エルキンズ大学のアーティスト・イン・レジデンスに任用された[17]。2023年11月29日にアメリカ国民へと国籍変更を行った[18][19]。