ジャネット・ソーベル
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ジャネット・ソーベル | |
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ペンシルベニア美術アカデミーに展示されている「侵攻の日」 | |
| 生誕 |
ジェニー・オレコフスキー 1893年5月31日 ロシア帝国カテリノスラフ(現在のウクライナにあるドニプロ) |
| 死没 |
1968年11月11日(75歳没) アメリカ合衆国ニュージャージー州プレインフィールド |
| 国籍 | ウクライナ、アメリカ |
| 著名な実績 | ドリッピング絵画、オールオーヴァー絵画 |
| 代表作 | 「賛否」(Pro and Contra, 1941)、「鏡を通して」(Through the Glass, 1944)、「音楽」(Music, 1944)、「侵攻の日」(Invasion Day, 1944)、「銀河」(Milky Way、1945) |
| 運動・動向 | 抽象表現主義 |
ジャネット・ソーベル(英語: Janet Sobel、1893年5月31日 – 1968年11月11日)はウクライナ生まれのアメリカの抽象表現主義画家であり、ドリッピングによる絵画制作およびオールオーヴァー絵画(キャンバス全体を絵の具で均一に処理する絵画)のパイオニアである。45歳になってから絵画制作を始め、1940年代半ばにまたたくまにニューヨークの画壇で人気を博し、ジャクソン・ポロックに直接影響を与えた[1]。アメリカの美術史に大きな影響を与えた批評家クレメント・グリーンバーグが初めて見たオールオーヴァー絵画はソーベルの作であった。しかしながら絵の具に対するアレルギーが悪化したことなどが理由でその後は大作を制作することがかなわなくなり、美術界でも忘れ去られていた。
生い立ち
ジャネット・ソーベルはジェニー・オレコフスキー(レコフスキーと音写されることもある[1])として1893年に当時のロシア帝国カテリノスラフ(現在のウクライナにあるドニプロ)で生まれた[2]。一家はユダヤ系であった[3]。父はロシアのポグロムで殺害された[4]。1908年に助産師である母ときょうだいとともにブルックリンのブライトン・ビーチに引っ越した[4][5]。2年後に同じくウクライナからの移民であったマックス・ソーベルと結婚した[6]。ふたりの間には5人の子どもが生まれた[5]。
画家としての名声
1937年、ソーベルは人生も半ばの45歳になってから絵画制作を始めた[2]。全くの独学であった[7]。この時、既に孫のいる祖母であった[8]。夫のマックスは服飾・装飾業界で働いており、その仕事で用いる絵の具などを使って絵を描いていた[3]。非具象的な抽象絵画とフィギュラティヴ・アートの両方を制作した[9]。美術学生だった息子のソルがソーベルの才能に気づき、絵の力をのばす手助けをし、作品をマックス・エルンスト、アンドレ・ブルトンなどの移民してきたシュルレアリストたちや哲学者のジョン・デューイ、コレクターのシドニー・ジャニスなどに見せた[10]。
ソーベルは1944年にニューヨークのプーマギャラリーで初めての個展を開いた[11]。ソーベルを高く評価していたジョン・デューイがこの時のカタログに寄稿し、「自然との接触から直接受け取った」インスピレーションに基づく絵画を称賛している[9]。
ペギー・グッゲンハイムは1945年に自らの今世紀ギャラリーで開いた「女性たち」展(The Women) でルイーズ・ブルジョワやケイ・セージとともにソーベルの作品を展示し、翌年には同じ場所での個展に招聘した[12]。個展のパンフレットはシドニー・ジャニスが執筆した[13]。
クレメント・グリーンバーグやジャクソン・ポロックはこの頃にソーベルのオールオーヴァー絵画を見たと考えられるが、グリーンバーグの記述に若干曖昧な点があるため、どの展覧会でどの絵を見たのはわかっていない[14]。
1943年から1946年まで、ソーベルはニューヨークの美術界で知られた存在であった[15]。1943年のブルックリン美術館第27回年間展でソーベルの作品が展示され、1944年と1945年にも展示された[15]。
キャリアの衰え
ソーベルが画家として人気があったのはごく短い期間であった[3]。ソーベルの名声が続かなかったことには3つほど理由があると考えられており、1947年に家族でニュージャージー州に引っ越してニューヨークの美術界から物理的に引き離されてしまったこと、最も重要な理解者であったペギー・グッゲンハイムが同年にニューヨークのギャラリーを閉めてヴェネツィアに引っ越してしまったこと、制作に使用していた工業用絵の具やエナメル塗料に対するアレルギーを発症してしまったことがあげられる[3]。このアレルギーのため、ソーベルは絵の具ではなくクレヨンや鉛筆を使用するようになったが、かつてのような大作は制作できなくなってしまった[3]。
死
1960年代には心臓発作が原因で健康を害していた[3]。1968年にニュージャージー州プレインフィールドの自宅で死亡した[16]。この時は既に画家としての業績はほとんど忘れ去られていたという[1]。
2021年に『ニューヨーク・タイムズ』が遅ればせながらソーベルの訃報を刊行した[17]。
作風
ソーベルは音楽をインスピレーションの源としており、ブライトン・ビーチのアパートにある4部屋全てにラジオがあって、音楽を聴きながら制作していたという[18]。1944年の作品「音楽」(Music) はドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲第7番をヒントに制作された[19]。
ソーベルの作品には空いた場所を全て埋めようという傾向があり、空間恐怖的であると言われる。ソーベル自身はこれを過去の経験に結びつけていた。ソーベルの軍隊や伝統的なユダヤ系家族の描写は子どものころの経験を反映している。ホロコーストの時代を通して幼い頃のトラウマを生き直すような絵もあり、子ども時代の苦しい記憶を克服し、芸術を通して想像の中に安全な世界を見つけていたと評される[10]。第二次世界大戦はソーベルに大きな影響を与えており、1948年には広島市への原子爆弾投下を主題とする「ヒロシマ」(Hiroshima)を描いている[20]。