ジャマルル・キラム3世
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ラハダトゥ対立
1938年7月16日、ジャマルル・キラム3世はフィリピンのスールー州にあるマインブンで生まれた[1]。父はプンジュンガン・キラムであり、彼は13人兄弟[3]の長男だった[2]。彼の父方の祖父はスールー王国の次期スルタンであったムワリル・ワシト2世だったが、彼が生まれる前の1936年に即位直前で急死していた[4]。彼はスールー州の高校を卒業すると[2]マニラにあるマニュエル・ケソン大学に進学し、法学の学位を取った[1]。
1984年、彼は次期スルタンとして公表され、1986年にホロで即位した[2]。だが、1999年には弟のイスマイル・キラム2世に譲位した[5]。
2007年にはフィリピンの上院(元老院)にTEAM Unityから出馬したが[6]落選した[1]。この選挙の際にインタビューを受けており、1992年に日本の財団から病院器具の援助を受けたこと、1999年に側近87人と共に中国を訪問し農業技術を交換する合意を締結したことなどを自身の功績として挙げた[6]。
2012年9月、同じくスールー王国のスルタンの家系からムズル・ライ・タン・キラムがスルタンに「即位」したと公表された[5]。キラム3世の父の兄であるイスマイル・キラム1世が死去した後、その息子ムハクッタ・キラムと弟のプンジュンガン・キラムの両名がそれぞれスルタンを主張しており、このとき即位を公表したムズル・ライ・タン・キラムはムハクッタ・キラムの息子であり後継者だった[5]。これに対し同年11月にキラム3世らは家族で集まり、一旦は退位していたジャマルル・キラム3世を対外的なスルタンとした[5]。
2013年2月、キラム3世はサバ州に武装集団を派遣した[3]。当時、キラム3世はマニラ首都圏にあるタギグ市の自宅で指揮をとっており、本人の証言によれば派遣されたのは弟のアジムッディン・キラムを指揮官とした235人だったという[3]。派遣された集団は2月12日からラハダトゥの村を占拠し、警察と軍に包囲された[7]。3月5日から掃討戦が始まり11日に村が奪還されたが、立てこもっていた武装集団は森でのゲリラ戦を開始した[8]。『産経新聞』によれば、村奪還翌日の12日時点で累計の死者数は武装集団の54人を含め総計63人に達していたという[8]。
主張
事件当時の『産経新聞』のインタビューでは、「われわれに敬意を払わず支援も利益の分配もない。マレーシアは(サバの租借料を)5300リンギット(約16万円)しか支払っていない。それも年間だ」と語り、待遇改善を求めての派遣だと主張した[3]。また、モロ民族解放戦線やモロ・イスラム解放戦線の行為は犯罪だと述べ、協力関係にないと主張した[3]。自身がスールー王国の末裔である証拠としては、サバ州の租借料の支払いが英国からマレーシアへと引き継がれて現在でも支払われ続けていること、フェルディナンド・マルコスおよびそれ以降のフィリピン大統領に末裔だと認められていることを挙げた[3]。またスールー王国の風習を受け継いでいる例として、若い頃は地面に足をつけてはいけなかったので担がれて移動したというエピソードを紹介した[3]。