イタリア最大の自動車会社フィアットの創始者ジョヴァンニ・アニェッリの息子エドゥアルドとカルロ・デル・モンテ(サン・ファウスティーノ公爵)の娘ヴィルジニア・デル・モンテの長男としてイタリア北部の工業都市で同社の本拠地であるトリノで誕生。
14歳の時に父親が死去したが、ジャンニが幼かったために直ぐには会社を継がず、1966年に会長に就任するまでの間、会社の経営は、第二次世界大戦以前より同社の番頭的存在であったヴィットリオ・ヴァレッタが行った。
第二次世界大戦が終結した1945年にトリノ大学法律学部を卒業し同社に副社長として入社したものの、その間は帝王学を身につけるべく勉学に励む一方、しばらくの間同社の実際の経営はヴァレッタが行い、自らは各国を飛び回り各国の政財界の指導層や貴族などとの親交を深めた。またイタリア随一の財閥の御曹司として世界中のリゾート地を飛び回って優雅な暮らしを堪能した。
またフェラーリ・166MMやフィアット・131・アバルト・ラリーなど特別注文したイタリア車を愛用したが、1950年代には自動車事故のため左足の膝から先を切断し、それ以降は義足を使うことになった。また誘拐を防ぐために、常に自分の車の他にボティーガードを数人乗せたフイアット車を走らせていた。なお、誘拐された時のために常に毒薬を所持していた。
アレッサンドロ・ペルティーニ首相(右)とともに
その後1963年に フィアット社長に、1966年には会長に就任し自身が経営を行うことになった。会長就任後は、ソビエト連邦やブラジル、スペインなど各国に生産拠点を作るなど同社の国際化を進めた他、バスやトラックなどの商用車、航空機や鉄道車両の製造にも手を広げた。
また、1969年には経営不振で倒産寸前だった高級車メーカーのランチアを、1986年には国営化されてからも経営不振が続いていたアルファロメオを傘下に収めた他、1988年には高級スポーツカーメーカーのフェラーリを、1998年にはマセラティも傘下(正確にはフェラーリの傘下)に入れ、フィアットを名実ともにイタリアを代表する大企業に育て上げた。
また、1923年から名誉会長を務めていたエドゥアルドを継いで、1947年よりイタリアサッカー・セリエAの名門チーム「ユヴェントスFC」の名誉会長を務めた他、「コリエーレ・デラ・セラ」や「ソーレ24オーレ」などのイタリアを代表する新聞社やテレビ局、出版社など各種マスコミの経営者も務めた。1991年にはイタリア経済に対する貢献が認められ、イタリアの終身国会議員になった。
F2003-GA
1996年に前立腺癌にかかり、7年に渡る長い闘病生活の末に2003年1月24日に81歳で死去した。ジャンニの死後、フェラーリの本社があるマラネッロにはフェラーリの象徴である「跳ね馬」の紋章の半旗が掲げられた。
また、フェラーリのF1に対する活動への貢献に敬意を表して、フェラーリチームが2003年に使用したシャシー「F2003-GA」は、ジャンニの頭文字「GA」から名づけられた。
なお、ジャンニの後のフィアット社およびグループ企業の責任者の座は弟のウンベルトが継いだものの、翌2004年5月28日にウンベルトも癌で死去した。