ジャン・ムートン
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1459年かそれ以前に生まれたが、しばしばルネサンスの作曲家に当てはまるように、幼少期に関する記録は乏しい。ブローニュ・シュル・メール近郊の寒村オリギュー(現在のオー=ヴィーニュ)出身の見込みが高い。アミアン南西部のネールの司教座教会で、1477年に聖歌隊員や教師として活動を始め、1483年に聖歌隊長に就任する。この頃に僧侶も勤めたらしく、1500年にはアミアン大聖堂で少年聖歌隊員の保護者となった。1501年にはグルノーブルに滞在して少年聖歌隊員を指導したが、翌年にその地を去り、どうやら王妃アンヌ・ド・ブルターニュに仕えたようである。それからムートンはフランス宮廷の中心的な作曲家として、公式ないしは非公式に、しばしば国事のための機会音楽を作曲した。
モテット《キリストは勝てり Christus vincit》は、1513年のコンクラーベのために作曲された。教皇に選出されたレオ10世は、明らかにムートンの音楽が気に入っており、ムートンから1515年にモテットを献上されると、名誉称号を与えて報いた。これはマリニャンの戦いの直後に、フランソワ1世に従ってボローニャで同教皇に謁見した際の話である。このイタリア訪問は、ムートンの最初の、そしておそらく唯一の外国旅行であったろう。
1517年から1522年まで、スイスの音楽理論家グラレアヌスの訪問を受ける。グラレアヌスは滔々と称賛の念を書き綴り、「誰もが彼の楽譜の写しを持っている」と述べた。グラレアヌスの音楽論文『ドデカコルドン Dodecachordon』には、ムートンの譜例がいくつか利用されている。
ムートンは、ロレンツォ・ディ・メディチに献上された、「『メディチ写本』と呼ばれる著名な手稿譜集の編纂者かもしれない。
野営地ル・キャン・ドラドール(Le Camp de Drap d'Or)におけるフランソワ1世とヘンリー8世の会談において、ムートンが音楽の宴の責任者だったという話は、きわめて可能性が高いものの、証明されていない。
最晩年にサンカンタンに移り住んだ。1518年に世を去ったロイゼ・コンペールの後任聖職者として、聖職禄を受けていたかもしれない。サンカンタンで亡くなり、同地に埋葬された。