ジュリオ・クローヴィオ
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現在のクロアチアのプリモリェ=ゴルスキ・コタル郡のGrižane-Belgradという村に生まれた[2]。1516年にイタリアに移り、後に枢機卿になるヴェネツィア貴族のマリノ・グリマーニ(Marino Grimani)の使用人になり、画家としての訓練をうけた。ヴェネツィアやフィレンツェ、ローマで働き、ローマでジュリオ・ロマーノ(1499-1545)に学んだとされる。
1523年にブダに移り、ハンガリー王国の国王ラヨシュ2世に仕えたが、1526年に国王がオスマン帝国との戦いで戦死すると、その年イタリアに戻った。1528年にマントヴァ近くの修道院に入り、名前をジュリオと改めた。けがをして治療のためにパドヴァ近くの修道院に移り、そこで写本の装飾画を得意とするジローラモ・ダイ・リブリ(Girolamo dai Libri: 1474-1555)のもとで学ぶことになった。1531年から再びマリノ・グリマーニのために働いた。
1539年から亡くなるまではローマで枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼのために働き、1561年まではべつの貴族たちのためにミニアチュールも描いた。ミケランジェロやジョルジョ・ヴァザーリと友人であり、1550年代にはピーテル・ブリューゲルとも協力した。晩年は有名な画家エル・グレコのパトロンとなり、1571年にエル・グレコが描いた『ジュリオ・クローヴィオの肖像』は現在はナポリのカポディモンテ美術館に収蔵されている。
名前の表記について
グローヴィオのラテン語名はGeorgius Iulius Clovius、南スラブ生まれであることから Crovatinusや Illiricus、 Macedonusとも作品に署名した[3]。クロアチア語での表記は Julije Klovićである。