ジュール・ラシュリエ
フランスの哲学者 (1832-1918)
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
ラシュリエは1832年、フランスのフォンテーヌブローで退役海軍将校の父の一人息子として生まれた。長じてパリのリセ・ルイ=ル=グランへ進み、高等師範学校に合格して哲学の習得に励んだ。順調に道を歩んでいたが、1851年にナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)がクーデターを起こし翌年第二帝政が始まると、危険思想が含まれているとして哲学の教授資格試験(アグレガシオン)が廃止され、さらにリセでの哲学授業も全面的に禁止された。師範学校を卒業したラシュリエは、政治思想が含まれていないという理由で許されていた論理学・修辞学の試用教員としてリセに職を得た[2]。
2年間の試用期間が終わると、禁止されている哲学の代わりに文学の教授資格試験を受けて合格、1856年からは奨学金を受け、高等師範学校の研究員として2年間、研究に没頭した。1858年にはリセ教師としてトゥールーズに赴任、4年間勤めた。1862年、パリのリセ・ボナパルトで論理学教師となったころから政治の潮目がかわり、自由帝政といわれる時代に入る。1863年に哲学のアグレガシオン(教授資格試験)が復活するとラシュリエはこれに合格、翌1964年、高等師範学校に助教授として招聘された[3]。以降ラシュリエは、1864〜1875年の間、母校・高等師範学校で哲学、哲学史を講じた[4]。
この間の1871年に最初の著作にして主著である学位論文『帰納法の基礎』を発表。教育者としても、後に哲学者となる学生たちに大きな影響を与えた。例えば1872年から師範学校でラシュリエに学んだジュール・ラニョーは、後生の思想史家からラシュリエと並んで「フランス反省哲学」(史家によってはフランス・スピリチュアリスム[注釈 1])の流れを作ったと評される[注釈 2]。ベルクソンに影響を与えたエミール・ブートルーもラシュリエに師事した一人である[5]。アランもまた師ラニョーの助言でラシュリエの『帰納法の基礎』を熱心に勉強し、ラニョーの弟子ということでラシュリエからも可愛がられたという[6]、
続く1875年からは転じて文部省視学官を務め[4]、同時にアグレガシオン(教授資格試験)の審査員も務めた。1900年には視学官を引退しアグレガシオンの審査委員長に就任して1910年に退くまで続けた[7]。
晩年には自分の多くの論文を燃やし、個人的な手紙を死後に公表することも禁じて、1918年1月26日パリで没した。[注釈 3]
レジオンドヌール勲章コマンドゥール受章[8]。
哲学
著書

- Du fondement de l'induction suivi de Psychologie et Métaphysique, Alcan, 1896, in Gallica (電子版).
- Du fondement de l'induction suivi de Psychologie et Métaphysique et de Notes sur le pari de Pascal, Paris, Alcan, 1924.
- Œuvres, Paris, Librairie Félix Alcan, 1933
邦訳書はない。代表作は以下の論文[注釈 4]。
- 『帰納法の基礎』(1871年)
- 『心理学と形而上学』(1885年)
- 『パスカルの賭けについての覚え書』(1901年)