ジョエル・ベイリー
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ジョエル・ベイリー(Joel Bailey, 1951年4月25日 - )は、アメリカ合衆国・フロリダ州出身の元男子プロテニス選手。グランプリツアーでダブルス1勝を挙げている[1]。右利き。自己最高ランキングはシングルス197位、ダブルス90位[1]。1980年代は日本に居住して全日本テニス選手権のダブルスを2度制している[2]。
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| 基本情報 | ||||
| 国籍 |
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| 出身地 | 同・フロリダ | |||
| 生年月日 | 1951年4月25日(75歳) | |||
| 利き手 | 右 | |||
| ツアー経歴・シングルス | ||||
| ツアー通算 | 0勝 | |||
| 自己最高ランク | 197位(1979年1月3日) | |||
| 生涯通算成績 | 7勝34敗 | |||
| 4大大会最高成績・シングルス | ||||
| ウィンブルドン | 1回戦(1978,1981) | |||
| 全米オープン | 2回戦(1979) | |||
| ツアー経歴・ダブルス | ||||
| ツアー通算 | 1勝 | |||
| 自己最高ランク | 90位(1979年9月24日) | |||
| 生涯通算成績 | 28勝55敗 | |||
| 4大大会最高成績・ダブルス | ||||
| 全豪オープン | 2回戦(1981) | |||
| 全仏オープン | 1回戦(1978) | |||
| ウィンブルドン | 2回戦(1978) | |||
| 全米オープン | 1回戦(1977,1979,1981) | |||
| 2026年4月29日現在 | ||||
経歴
大学とプロツアーの実績
1965年に一家でテネシー州メンフィスへ移住し、メンフィス・ユニバーシティ・スクールでテニスキャリアを開始した[3][4]。1970年にアラバマ州のサムフォード大学へ進学。NCAAディビジョンIIにおいて、チームメイトのチャーリー・オーウェンズとのペアでダブルス選手権準優勝を飾るなどの活躍を見せた[5]。チームとしてもディビジョンII団体戦で総合2位となり[5]、1974年にベイリー自身もオールアメリカンに選出されている[1][6]。
1976年、25歳という比較的遅い年齢でプロへと転向。賞金獲得よりも「自分の実力がどこまで通用するか」を確かめるための挑戦であった[6]。プロ転向1年目は、発足間もないサテライトサーキットの一つアメリカンエキスプレス・サーキットを6週間転戦して総合12位となるなど、世界各地を回ったが獲得賞金は年間7,000ドル強にすぎなかった[6]。
1977年1月の全豪オープンでグランドスラム予選に初挑戦したのち[7]、1978年6月のウィンブルドンで予選を突破して本戦初出場を果たした(1回戦敗退)[8]。1979年1月にはシングルスの自己最高ランキング197位を記録している[1]。同年2月、ナイジェリア開催のラゴス・オープンのダブルスでブルース・クリージと組んで優勝。これがキャリア単複を通じて唯一のツアータイトルとなった[9]。また、1980年4月のタルサ大会では予選から勝ち上がり、2回戦で第7シードのティム・ウィルキソンを破るなどしてベスト8に進出[10]。これがグランプリツアーでのシングルス最高成績となった[11]。
日本テニスとの関わり
ベイリーと日本テニスの関わりは深く、1978年4月に第1回ジャパン・サテライトサーキットへの参加のため来日したのが最初である。このときは第4戦のアシックス・テニスクラシックのダブルスで準優勝を飾った[12]。翌1979年は前年同様にサテライトサーキットを回った後、その年からチャレンジャー大会に昇格していた第3回ダンロップマスターズのダブルスで優勝している[13]。同年10月から1987年までは毎年ジャパンオープンに出場を続けた[11]。
ベイリーは1980年代初頭から日本へ拠点を移し、約10年にわたって居住した[14][15]。ルネサンス社系列のテニスクラブでコーチとして生計を立てながら、国内大会の出場資格も得て多くのタイトルを獲得している[15]。日本での主な戦績としては、全日本テニス選手権のダブルスで2度の優勝(1985・90年)を誇り[2]、1987年には全日本室内テニス選手権のシングルスで優勝を飾った[16]。このほか、カワサキオープン(1982年)[17]、ダンロップマスターズ(1979・83年)[18]、京都クラシックマスターズ(1985・89年)などダブルスで多数優勝を記録している[19][20]。指導者としてはレクリエーションとしてテニスが楽しまれていた日本のスタイルに合わせつつも、当時の日本選手に見られた技術の正確さを重視して攻撃性に欠ける傾向への指摘も行っていた[14]。
アメリカ帰国後
日本での選手・指導者生活を終えた後はテネシー州メンフィスへ帰郷。2014年からローザンヌ・コレジエイト・スクールのテニス部ヘッドコーチを務めている[21]。同校では男子チームを州選手権4連覇、女子チームを2連覇へと導いて、2025年には地元紙から年間最優秀テニスコーチに選出されるなど地域に根ざした活動を続けている[22][23]。