ジョスラン2世 (エデッサ伯)
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| ジョスラン2世 | |
|---|---|
| エデッサ伯 | |
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在位期間 1131年 – 1150年 | |
| 先代 | ジョスラン1世 |
| 次代 |
ヌールッディーン (エデッサの実効支配者) ジョスラン3世 (名目上の伯) |
| 死亡 |
1159年 アレッポ |
| 王室 | クルトネー家 |
| 父親 | ジョスラン1世 |
| 母親 | ベアトリス |
| 配偶者 | ベアトリス・ド・サオン |
|
子女 ジョスラン3世 アニェス・ド・クルトネー イザベル・ド・クルトネー | |
ジョスラン2世・ド・クルトネー(仏語:Josselin II d'Édesse、1159年没)とは、1131年から1150年まで在位した最後のエデッサ伯である。ジョスラン1世・ド・クルトネとベアトリス・ド・バルツェベルド=ヴァフカ(Béatrice de Bartzeberd et Vahka)の子である。


1122年9月13日、父ジョスラン1世とビラ領主ガレラン・デュ・ピュイゼがセルジューク朝の統治者バラク・ガージィーに捕らえられ、ハルプートに投獄された。これに続き1123年4月18日、彼らの救出を試みたエルサレム王ボードゥアン2世も捕虜となった。その後、約50名のアルメニア人が策略によって城塞を奪取し、ジョスランはエデッサへの帰還に成功したが、ボードゥアンとガレランは再び捕らえられた[1]。バラクはその後まもなく戦死し、バラクの後継者ティムルタシュ・イブン・ガーズィーは、身代金と引き換えにボードゥアンの解放に応じた。身代金支払いの保証として、5歳のイヴェット・ド・エルサレム(Yvette of Jerusalem)、10歳前後のジョスラン(のちの2世)、および10名の若いフランク貴族が人質としてシャイザールに送られた。その後、モースル総督アク・ソンコル・ブルスキーがアレッポを掌握し、1125年5月15日にシリア地域の諸首長国を巡察して人質を引き取った。しかし彼は同年6月、アザズの戦いでフランク軍に敗れ、十字軍勢力はその戦利品を用いて身代金の支払いを完済した[2]。
1131年、父ジョスラン1世はアレッポとマブグ(Mabbug)の間にある要塞を包囲中、城壁下に掘らせていた坑道の崩落に巻き込まれて重傷を負った。ほどなく、あるアミールがカイソーン(Kaisûn)を包囲すると、ジョスランは息子に救援軍の指揮を命じたが、兵力不足を理由に拒否された。そのため父伯は担架に乗って出陣し、恐れをなした敵は包囲を解いたが、作戦中にジョスラン1世は死去し、息子がエデッサ伯位を継承した[3]。
ザンギーの脅威が高まる中、ジョスラン2世はまず、アンティオキア公ボエモン2世の未亡人であるアリックスの策謀(アンティオキアにおける権力掌握を企み、自身の娘を追放するというもの)に加担したが、フルク・ダンジューが介入して鎮圧した。その後、ザンギー配下でアレッポ総督のサワール(Sawar)によるトゥルベッセル攻撃を防衛するが、多大な損害を被った[4]。レーモン・ド・ポワティエがコンスタンス・ダンティオケと結婚すると、ジョスランは彼を嫌悪し、アンティオキア総大司教ラウール・ド・ドンフロンが追放された際にはこれを庇護した。さらにアンティオキア公国・キリキア・アルメニア公国間の国境紛争ではアルメニア公レヴォン1世を支持したが、最終的には両者の和解を仲介した[5]。
1137年、ビザンツ皇帝ヨハネス2世コムネノスは、アンティオキアに対する自らの権利を再確認するため、軍を率いて遠征を行った。彼はレーモン・ド・ポワティエから臣従の礼を受け、フランク勢との協定に基づいてアレッポ征服のための共同作戦を構想した。この計画が実現すれば、アンティオキアは再びビザンツ領となり、レーモン・ド・ポワティエはアレッポ公となるはずであった。作戦は1138年初頭に開始され、レーモン・ド・ポワティエおよびジョスラン2世は皇帝軍に同行した。同年4月7日にはビザア(Bizâ’a)を攻略し、この都市はエデッサ伯に与えられた。しかし、この包囲戦によって奇襲作戦という側面は喪失し、連合軍はシャイザール包囲戦で足止めされることとなった。レーモン・ド・ポワティエとジョスラン2世は、アレッポの陥落がレーモンにとってアンティオキア喪失を意味するため、ビザンツ側に対して積極的に協力せず、最終的に征服作戦は放棄された。フランク=ビザンツ連合軍はアンティオキアへ撤退し、そこでヨハネス・コムネノスは城塞の引き渡しを要求したが、ジョスランが暴動を扇動したため、ビザンツ軍は都市から撤退を余儀なくされた[6]。
1142年、ヨハネス2世コムネノスは再びアンティオキアの併合を試み、まずジョスラン伯を無力化するため、彼に娘イザベルを人質として引き渡すよう要求した。しかし、都市の有力者たちはビザンツによる占領を望まず、暴動を組織したため、皇帝はアンティオキアを掌握することができなかった。翌年4月8日のヨハネス・コムネノスの死はアンティオキアに対するビザンツの要求に終止符を打つこととなった[7]。

皇帝の死後、レーモン・ド・ポワティエはキリキアにおけるビザンツの所領を荒廃させ、これによってビザンツ側にフランク人に対する敵意を生じさせた。さらにこの頃、レーモン・ド・ポワティエとジョスラン2世との対立は公然たる決裂へと発展した。ジョスラン2世は主としてエデッサを離れて滞在し、同市に十分な守備隊を配置することを怠っていた。そんな中、モースル・アレッポ総督であったムスリム指導者ザンギーは、アルトゥク朝支配下のディヤルバクル地域に対する遠征を企図したが、これはジョスラン2世をエデッサから引き離すための策であり、ジョスラン伯の隙をついてエデッサに軍を派遣して1144年11月28日に包囲を開始させた。補給が乏しく防備も不十分であったエデッサは、シリア人およびアルメニア人の抵抗にもかかわらず、同年12月23日に降伏し、ザンギーは続いてユーフラテス川以東の地域を掌握した[8]。
しかし1146年9月14日、ザンギーが暗殺され、これを好機としてエデッサのアルメニア人は反乱を起こした。ジョスラン2世は同年9月21日に首都エデッサへ帰還したが、ザンギーの子であるヌールッディーンはこれを察知し、都市の奪回を決断した。ジョスラン2世とその同行者たちは都市から逃走し、ヌールッディーンは同年11月3日に大きな抵抗を受けることなくエデッサを再占領し、シリア正教徒およびアルメニア人の住民を虐殺した[9]。
エデッサ陥落の報は新たな十字軍を引き起こしたが、ヌールッディーンを攻撃してエデッサ奪回を試みることはなく、結局十字軍はダマスカスを攻撃し、しかも成果を挙げることはできなかった。十字軍がヨーロッパへ帰還した後の1149年6月29日、レーモン・ド・ポワティエはイナブの戦いにおいて戦死した[10]。すでに伯領の一部を失っていたにもかかわらず、ジョスラン2世は1148年6月18日にマール・バルサウマ修道院(Mar Barsauma)を略奪したことで、シリア正教徒のキリスト教住民との対立を深める結果となった。無政府状態に乗じて、アルトゥク朝はガルガル(Gargar)とその周辺地域を占領し、ルーム・セルジューク朝のマスウード1世はマラーシュ(Mar’ash)を占拠した上でトゥルベッセルを包囲したが、これはエルサレム王ボードゥアン3世の介入によってこの包囲は解かれた。1150年5月、ジョスランはヌールッディーンに対抗する共同防衛を協議するためアンティオキアへ赴いたが、その途上でテュルク人に捕らえられ、1150年5月4日にアレッポで投獄された。妻ベアトリス・ド・サオンは、増加するトルコ勢の襲撃からトゥルベッセルの防衛を試みたが、最終的には1150年8月、ボードゥアン3世の同意を得て伯領の残存地をビザンツ帝国に売却し、エルサレム王国へ退去した。ジョスラン2世は9年に及ぶ幽閉の末、アレッポで死去した[11]。