ジョン・ウェズリー・ジャービス
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イングランド北東部のサウス・シールズに生まれた。18世紀のメソジスト運動の指導者ジョン・ウェスレーと親類の関係にあった。父親は船乗りで、1780年代半ばに、家族とアメリカに移った。一家はフィラデルフィアに住み[1][2]、ジャービスは少年時代をそこで過ごした。そして、肖像画家マシュー・プラット(Matthew Pratt: 1734年 - 1805年)のスタジオをしばしば訪れ、デンマーク生まれの画家クリスチャン・ガラガー(Christian Gullager: 1759年 - 1826年)にも会っていた。1796年に肖像画家、版画家のエドワード・サヴェージ(Edward Savage: 1761年 - 1817年)の弟子になり、同じくサヴェージの工房にいたイギリス生まれのデーヴィッド・エドウィン(David Edwin: 1776年 – 1841年)と友人になった。
1801年にエドワード・サヴェージとニューヨークに移り、1年たつ前に独立して版画の仕事をはじめ、1803年にはジョセフ・ウッド(Joseph Wood: 1778年頃 - 1830年)と共同で工房を運営した。この共同経営は7年間に及び、版画やミニアチュール、肖像画を制作した。美術学校を経営し、安価な影絵の肖像画も制作し、ニューヨークで人気のある画家になった。1809年に最初の結婚をし、肖像画家になるチャールズ・ウェズリー・ジャービス(Charles Wesley Jarvis: 1812年 – 1868年)らが生まれるが、1813年に妻は亡くなった。1811年から1813年までボルチモアに住んだ。1814年にニューヨーク市の市議会 (Common Council) からの、1912年の米英戦争で活躍した6人の海軍軍人の肖像画を描く仕事を引き受けた。この後の約10年間は、ニューヨークの有力者たちとの交流もあり、アメリカを代表する肖像画家であった。この時期の助手には、ヘンリー・インマンらがいた。
1823年に弟子のジョン・キダー(John Quidor: 1801年 - 1881年)との雇用契約をめぐる裁判に敗訴し、1824年に2番目の妻との離婚裁判にも敗訴した。1820年代から1830年代には、肖像画に対する需要の減少により、地方で肖像画の仕事を探さなければならなかった。1834年に脳卒中を起こし、麻痺と精神障害が残った。ニューオーリンズで妹に世話を受けて、貧困の中で亡くなった。
ジャービスが肖像画を描いた人物には、後にアメリカ大統領になるアンドリュー・ジャクソンらがいる。