ジョン・カスト (初代ブラウンロー伯爵)
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初代ブラウンロー男爵ブラウンロー・カストと2人目の妻フランシス(Frances、旧姓バンクス(Bankes)、1756年8月6日 – 1847年4月13日、サー・ヘンリー・バンクスの娘)の息子として、1779年8月19日に生まれた[1]。1788年から1793年までイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1797年4月12日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1801年にM.A.の学位を修得した[3][4]。1801年5月7日、ロンドン考古協会フェローに選出された[1]。
1798年8月25日、リンカンシャー・ヨーマンリー連隊のコルネット(騎兵少尉)に任命された[5]。1803年7月13日、大尉に昇進した[6]。同年9月14日、リンカンシャーの副統監に任命された[7]。1805年1月12日、北リンカンシャー民兵連隊(Royal North Lincolnshire Regiment of Militia)の少佐に任命された[8]。1811年、南リンカンシャー民兵隊(South Lincolnshire militia)隊長に任命された[2]。
父が1796年と1802年の間に初代リブルスデイル男爵トマス・リスターのクリセロー選挙区における影響力(1議席の指名)を購入した結果、1802年、1806年、1807年の総選挙で無投票で当選した[9]。庶民院で演説した記録はなく、アディントン内閣期(1801年 – 1804年)では1804年4月にアイルランド民兵法案の採決で野党に同調、第2次小ピット内閣(1804年 – 1806年)を支持した[2]。1805年5月2日、王立協会フェローに選出された[10]。
1807年12月25日に父が死去すると、ブラウンロー男爵位を継承した[1]。爵位継承以降もクリセロー選挙区で1議席の指名を続けた[9]。1809年2月25日から1852年8月20日までリンカンシャー統監を務めた[11][12]。1809年8月29日にリンカンシャー海軍次官に任命され、1853年に死去するまで務めた[13]。
1815年に首相リヴァプール伯爵に爵位の昇叙を申請して成功[2]、同年11月17日に連合王国貴族であるブラウンロー伯爵とリンカンシャーにおけるアルフォードのアルフォード子爵に叙された[1][14]。叙爵申請では政府への支持と民兵隊への貢献を実績として挙げた[2]。
1834年6月10日、オックスフォード大学よりD.C.L.の学位を授与された[1][4]。同年にロイヤル・ゲルフ勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[1]。1835年7月6日、ケンブリッジ大学よりLL.D.の学位を授与された[1][3]。
1837年奴隷補償法により奴隷所有者への金銭補償が行われ、ブラウンロー伯爵は10,058ポンドの補償金を受け取った[15]。
1853年9月15日にベルトンで死去、息子ジョン・ヒュームに先立たれたため孫ジョン・ウィリアム・スペンサー・ブラウンローが爵位を継承した[1]。
