ジョン・サヴィル (初代サヴィル男爵)
From Wikipedia, the free encyclopedia
第8代スカーバラ伯爵ジョン・ラムリー=サヴィルとフランス出身の「アグネス」という名前の女性との間の庶子として、1818年1月6日に生まれた[1]。スカーバラ伯爵とアグネスの子女では次男にあたり、長男ジョージ・フレデリックは1812年9月23日に生まれ、1816年5月に夭折した[1]。
1841年8月24日にイギリス外務省に入省して[1]、図書館部門の定員外書記(supernumerary clerk)になった[2]。同年11月、在プロイセン特命全権公使に就任する第11代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェインに私設秘書として同伴し、ベルリンに赴いた[2]。1842年7月5日にベルリン駐在のアタッシェに任命され、7年間務めた[2]。上司のウェストモーランド伯爵はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題をめぐりデンマーク・プロイセン間の調停に苦慮しており、サヴィルは外交を学ぶことができた[2]。
1849年にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに転勤、1854年10月に在ワシントンD.C.公使館員に昇進、1858年に在マドリード大使館員に転じた[2]。その後、1859年にサンクトペテルブルク、1860年4月14日にイスタンブール、1860年12月にサンクトペテルブルクと転勤を繰り返した[1][2]。サンクトペテルブルクでは1866年1月20日にロシア帝国美術アカデミー会員に選出された[1]。
1866年6月16日に在ザクセン特命全権公使に任命され[3]、同年11月まで務めた[1]。1867年8月22日に在スイス特命全権公使に任命され[4]、1868年10月19日に在ベルギー特命全権公使に転じた[5]。1873年2月25日、バス勲章コンパニオンを授与された[6]。1878年10月10日、バス勲章ナイト・コマンダーを授与された[7]。
1883年8月29日、在イタリア特命全権公使に昇進した[8]。1883年12月12日、枢密顧問官に任命された[9]。1885年6月15日、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[10]。1888年9月に公使職から退任した[2]。
1888年10月27日、連合王国貴族であるノッティンガム州におけるラフォードのサヴィル男爵に叙された[1][11]。この爵位には特別残余権(special remainder)が規定されており、初代男爵の男系男子が断絶した場合、初代男爵の同母弟フレデリック(1819年3月15日 – 1859年)の息子ジョン・サヴィル及びその男系子孫が爵位を継承できる[1]。
在イタリア公使の在任中、古代ローマのラヌウィウムの遺跡発掘をはじめたほか、1885年にローマで行われた第6回国際衛生会議にイギリス代表として出席した[2]。その後、1889年5月9日にロンドン考古協会フェローに選出された[1]。
1887年3月28日に女王の認可状を得て、姓を「サヴィル」に改めた[1]。同年4月13日に弟オーガスタス・ウィリアムの死去に伴い[1]、ラフォード・アビーの地所を相続し、ラフォードに自身のアートコレクションを置いた[2]。1890年にナショナル・ギャラリー理事に就任した[1]。サヴィルはナショナル・ギャラリーにディエゴ・ベラスケスの『柱につながれたキリスト』を寄贈している[2]。
1896年11月28日に生涯未婚のままラフォード・アビーで死去、12月3日にノッティンガム州ビルソープで埋葬された[1]。爵位の特別残余権に基づき甥ジョン・サヴィルが爵位を継承した[1]。
