ジョン・スクーラー
From Wikipedia, the free encyclopedia
グラスゴーの染色業者の息子に生まれた。キルバーチャン(英語版)で基礎学問を学んだ後、グラスゴー大学で医学を修め、その後パリ植物園で学んだ。
イングランドに移った後、ウィリアム・ジャクソン・フッカーの紹介で、ハドソン湾会社の船医および博物学者としてアメリカに渡る商船「ウィリアム・アンド・アン」号の航海に参加することになった。1824年、同船はロンドンを出発後、マデイラ諸島、リオ・デ・ジャネイロとガラパゴス諸島に寄港し、スカウラーは同じ船に乗船していた植物学者のデイヴィッド・ダグラス(英語版)とともに寄港した港で近くを探索した。スクーラーの航海記録には、アーチボルド・メンジーズらバンクーバー探検の先達たちから、この地域の植物や、標本の保存方法についての教えを受けたことが記されている。スクーラーはカナダ太平洋岸のコロンビア川近くに1825年4月から9月まで滞在し、1826年初めに帰国した[1][2]。帰国後まもなく、別の商船の船医として、喜望峰、マドラスを経緯してコルカタを訪れた。
グラスゴーに戻り、医師として開業した後、1829年にアンダーソニアン大学(現ストラスクライド大学)の地質学、動物学、博物学、鉱物学の教授となった。同年にはロンドン・リンネ協会のフェローに選ばれた。1834年に王立ダブリン協会(英語版)の鉱物学の教授となり、その後、地質学、動物学、植物学も教えるようになった。1854年に引退してグラスゴーに戻った。
1854年に健康上の理由でポルトガルに旅し、その後オランダ、スカンディナヴィアも旅した。引退後も時折講義を行い、アンダーソニアン博物館の管理も行った。1871年にグラスゴーで亡くなり、キルバーチャンに葬られた。
1826年から1852年の間に自然科学や気象学の雑誌に20以上の論文を発表したほか、医学の同僚と『Glasgow Medical Journal』を創刊し、1831年には学術誌『Edinburgh Journal of Natural and Geographical Science』の編者も務めた。
スクーラーの名前がつけられた事物には鉱物のScouleriteやギボウシゴケ科 (Grimmiaceae) の属名 Scouleria のほか、ヒタキ科の鳥類の種 Enicurus scouleri などがある。
脚注
- ↑ Edinb. Journ. Sci. vols. v. vi.
- ↑ Scouler, John (1905). “Dr. John Scouler's Journal of a Voyage to N. W. America. Columbia, Vancouvre, & Nootka Sound” (英語). The Quarterly of the Oregon Historical Society 6 (1): 54–75. JSTOR 20609637. https://archive.org/stream/jstor-20609637/20609637#page/n1/mode/1up.
