ジョン・タウンゼンド (初代シドニー伯爵)
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第2代シドニー子爵ジョン・トマス・タウンゼンドと2人目の妻キャロライン・エリザベス・レティシア(Caroline Elizabeth Letitia、1781年ごろ – 1805年8月9日、初代リートリム伯爵ロバート・クレメンツの娘)の息子として、1805年8月9日にメイフェアのグローヴナー・スクエアで生まれた[1]。母は出産時に死去した[1]。1817年から1820年までイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1822年6月10日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1824年にM.A.の学位を修得した[3]。1824年から1825年にかけての冬をイタリアで過ごし、そこでヘンリー・エドワード・フォックス閣下(後の第4代ホランド男爵)と知り合った後、1825年1月にローマからナポリへと旅した[2]。同年4月にローマに戻った後、フィレンツェ、ヴェネツィア、ヴェローナ、チロル経由でパリに向かい、ランスで行われるフランス王シャルル10世の戴冠式に間に合うよう急行した[2]。そして、タウンゼンドはイギリスから派遣された特使である第3代ノーサンバーランド公爵とともに戴冠式に出席した[2]。
1825年6月に帰国すると、今度はロンドンの社交界でジョージアナ・ライダー嬢(Lady Georgiana Ryder、初代ハロービー伯爵ダドリー・ライダーの娘)に出会い、恋に落ちたが、9月にはジョージアナがジョン・ステュアート=ウォートリー=マッケンジー閣下(後の第2代ウォーンクリフ男爵)と(3週間の恋愛を経て)電撃婚約した[2]。タウンゼンドは同年11月にパリに向かい、「ここ8から10年は結婚しない」と思って既婚者の女性への求愛を繰り返した[2]。こうした情事を繰り返すうちにナポリで性病にかかり、1826年4月末には帰国して、ロシア皇帝ニコライ1世の戴冠式に出席するイギリス代表団の団長第6代デヴォンシャー公爵のアタッシェに就任した[2]。9月3日にサンクトペテルブルクで行われた戴冠式に出席した後、友人のモーペス子爵ジョージ・ハワード(後の第7代カーライル伯爵)とともにドイツとフランス経由で帰国した[2]。本国では7月に1826年イギリス総選挙が行われており、タウンゼンドはシドニー子爵家が1議席を掌握しているウィットチャーチ選挙区において、不在ながら無投票で当選した[4]。1830年イギリス総選挙でも無投票で再選した[4]。
庶民院では議会の開会式に出席した後、リヴァプール伯爵内閣を支持して、カトリック解放に反対(1827年3月、1828年5月)、審査法廃止に反対(1828年2月)した[2]。1828年9月24日に国王寝室宮内官(Groom of the Bedchamber)に任命され、1830年末の政権交代により1831年1月31日までに辞任した[2][5]。ウェリントン公爵内閣期に内閣がカトリック解放について譲歩したときは内閣に同調して賛成、その後は選挙法改正(1830年2月)、ユダヤ人解放(1830年5月)、通貨偽造罪の死刑廃止(1830年6月)に反対した[2]。1831年1月20日に父が死去すると、シドニー子爵位を継承して[1]、貴族院に移籍した[4]。
貴族院ではグレイ伯爵内閣による第1回選挙法改正に反対した[2]。以降ロバート・ピール率いる保守党内閣で王室家政職に就いた。第1次ピール内閣期において、1835年1月10日に国王寝室侍従(Gentleman of the Bedchamber)に任命され、同年4月29日に辞任した[5]。第2次ピール内閣期の1841年9月から1846年7月まで侍従たる議員を務め、ピールが穀物法廃止に踏み切ったときは賛成した[2]。その後、ピール派の一員から自由党に移るに至った[2]。アバディーン伯爵内閣期には1852年12月30日に国王親衛隊隊長に任命され[6]、1853年1月4日に枢密顧問官に就任した[7]。第1次パーマストン子爵内閣期に続投した後、1858年に退任した[1]。第2次パーマストン子爵内閣では1859年6月23日に宮内長官に任命され[8]、1863年3月10日にバス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[1][9]。第2次ラッセル内閣で宮内長官を続投した後、1866年7月の政権交代で辞任した[10]。1866年2月、ベルギー王レオポルド2世にガーター勲章を授与するイギリス特使に任命された[11]。第1次グラッドストン内閣では1868年12月9日に宮内長官に任命され[12]、1874年3月の政権交代で辞任した[13]。このとき、1874年2月27日に連合王国貴族であるケント州スカッドベリーにおけるシドニー伯爵に叙された[1][14]。第2次グラッドストン内閣では1880年5月3日に王室家政長官に任命され[15]、1885年6月の政権交代で辞任した[16]。第3次グラッドストン内閣では1886年2月10日に王室家政長官に任命され[17]、同年8月の政権交代で辞任した[18]。
1856年から1890年に死去するまでケント統監を務め、1883年時点でケント州に2,165エーカー、グロスター州に947エーカーの領地を所有し、合計で年収6,615ポンドに相当した[1]。
1890年2月14日にフロッグナルで死去、20日にチズルハーストで埋葬された[1]。後継者がおらず、爵位はすべて廃絶した[1]。
