ジョン・ド・ワーレン (第7代サリー伯爵)
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| ジョン・ド・ワーレン John de Warenne | |
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| 第7代サリー伯 | |
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| 在位 | 1304年 - 1347年 |
| 出生 |
1286年6月24/30日 |
| 死去 |
1347年6月 |
| 埋葬 |
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| 配偶者 | ジャンヌ・ド・バル |
| 家名 | ワーレン家 |
| 父親 | ウィリアム・ド・ワーレン |
| 母親 | ジョーン・ド・ヴィアー |
第7代サリー伯ジョン・ド・ワーレン(John de Warenne, 7th Earl of Surrey, 1286年6月24/30日 - 1347年6月)は、ワーレン家の最後のサリー伯。
ジョンは1286年6月24日か30日に生まれ[注釈 1]、同年11月7日に洗礼を受けた[1]。父は第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンの一人息子ウィリアム・ド・ワーレン、母は第5代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーの娘ジョーンである。父の死去時、ジョンはまだ生後6か月であった[7] 。
1304年に祖父が亡くなった時、ジョンはまだ未成年であった。そのため、その領地は当時、国王の管理下に置かれ[8][9]、親族であるイングランド王エドワード1世が後見人となった[6]。1306年4月、亡くなった祖父の第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンから相続した領地の占有権を与えられた[10]。1306年6月6日、ジョンは「現在のサリー伯」と呼ばれている[11]。
1306年5月22日、ジョンはウェストミンスター寺院で他の266人と共に騎士とされた。その中には、後にエドワード2世となる王太子も含まれていた[12]。この騎士道的な祝典は「白鳥の饗宴」と名付けられた。この時から、ジョンはスコットランド戦争に深く関わるようになった[13]。
ジョンは、エドワード2世の寵臣ピアーズ・ギャヴィストンの台頭に憤慨した大貴族の一人であり、1308年のギャヴィストンの追放を後押しした。翌年ギャヴィストンが帰国した後、二人はある程度和解したが、1312年にはジョンがギャヴィストンを捕らえた貴族の一人となった。しかし、ウォーリック伯の命によりギャヴィストンが処刑されたことには不満を抱き、再び国王側についた[7]。
貴族による反対運動は、国王の従兄弟であるランカスター伯トマスが主導し、ランカスター伯とジョンは激しい敵対関係に陥った。両者の間には私闘が勃発し、その後数年間でジョンは領地の大部分をランカスター伯に奪われた[7]。1319年、国王はランカスター伯にコニスボローとサンダルの町、そしてウェイクフィールド、ソーン、ハットフィールド、サワービー、ブレイスウェル、フィッシュレイク、デューズベリー、ハリファックスの荘園とその付属物を与えた。これらは国王の所有地であり、ジョンが以前、王の特許状に基づいて所有していたものであった[14]。1322年にランカスター伯の領地が没収された後、1326年5月17日、これらのヨークシャーの領地はジョンに再び与えられた[14]。
ジョンは、初代マーチ伯ロジャー・モーティマーとその叔父チャークのモーティマー男爵ロジャーを捕らえた4人の伯爵の一人であった。1322年には、ランカスター伯に死刑を宣告した貴族の一人となった[7]。
ジョンと義弟にあたる第9代アランデル伯エドマンド・フィッツアランは、王妃イザベラと初代マーチ伯ロジャー・モーティマーの台頭後もエドワード2世に忠誠を誓い続けた最後の2人の伯爵であった。アランデル伯が処刑された後、ジョンは王妃側となり、1327年にエドワード2世の退位を促した[7]。
ジョンは従兄弟のエドワード・ベイリャルの後見人であり、ベイリャルがスコットランド王位を主張した後は、ロージアン遠征に同行した。ベイリャルはジョンをストラザーン伯に叙したが、これは名ばかりで、伯領はスコットランド人が保有していた[7]。
ジョンは1347年にコニスボロー城で亡くなり、ルイスのセント・パンクラス修道院教会に埋葬された。ジョンは遺言で、教会の主祭壇近くに用意したアーチの中に埋葬してほしいと指示した[15][16]。死後の審理で記録された死亡日は1347年6月28日から30日となっている[17]。ジョンの跡を継いだのは甥のリチャード・フィッツアランで、アランデル伯でもあった[7]。
家族
1305年3月15日、イングランド王エドワード1世は、ジョンに孫娘ジャンヌ・ド・バルとの結婚を申し出た。ジョンはこれを「喜んで受け入れた」という[18]。ジャンヌはバル伯アンリ3世と、イングランド王エドワード1世の長女エリナーの娘であった[19]。
ジョンの父はイングランド王エドワード1世の従兄弟であり[5]、つまりジョンとジャンヌ・ド・バルははとこの関係にあった。二人ともイザベラ・オブ・アングレームの子孫であった。二人は4親等以内の血縁関係にあったため、教皇クレメンス5世から結婚の許可を得た[20]。二人は1306年5月25日、ウェストミンスター宮殿の王室礼拝堂で結婚した[6][21]。ジャンヌは結婚当時わずか10歳前後であった[22]。結婚後、二人はヨークシャーにあるジョンの領地に居を構えた。サンダル城に住んだ時期もあれば、コニスボロー城に住んでいた時期もあった[21]。1309年、イングランド王エドワード2世がジョンに、所有する領地を誰にでも相続させる許可を与えたことで、この結婚が幸福なものではないことがすぐに明らかとなった。しかし、ジョンは妻ジャンヌとの間に生まれる相続人が相続権を剥奪されないよう依頼した[23]。ジョンと妻の間には子供はいなかった。ジョンは何度かジャンヌとの離婚を試みたが、成功しなかった。
ジョンはモード・ド・ネルフォードと関係を持ち、数人の庶子をもうけた。その一人にサー・エドワード・ド・ワーレンがいる[24][25]。1311年までにジョンはモードと公然と同棲していた[26]。1313年、国王は従者ウィリアム・オーンにコニスボロー城からジャンヌを連れ出させ、国王のもとへ連れてこさせた[27]。イングランド王エドワード2世は、ロンドン塔に滞在していたジャンヌの費用を全額負担した。
1315年3月8日、モードは「ノーリッジ教区の騎士、故ウィリアム・オブ・ネルフォード・ナイトの娘、モード・ド・ネルフォード」と記されている[28][注釈 2]。この記述は、「リンカーン教区の書記官で、ジャックスル礼拝堂に召命を受けたロバート」が、ジャンヌ・ド・バルに届けた通告の中での記述である。通告の内容は、ジャンヌがノーフォーク大司教トマス・ガーデストンまたはその代理人の前に出頭し、ジャンヌとジョン・ド・ワーレンとの婚姻および離婚訴訟について答弁するよう命じられたというものである。この訴訟はモード自身が提起したものであった。しかし、通告はジャンヌがウェストミンスターのセント・スティーブン大聖堂の地下聖堂で王妃に付き添っている最中に読み上げられたが、これは禁じられていることであった。そのため、ロバートはロンドン塔に送られ、トマス・ガーデストンは次の議会に出席するよう命じられた[31]。モードは、自身がジョンと結婚することを約していたという理由で、ジョンとその妻ジャンヌとの離婚を請願していた。この件は長引いたが、1316年2月20日、国王はモードの訴訟を改めて開始することを許可した。国王はモードとサリー伯、そして彼らが訴訟で提訴する可能性のある他の人物に、訴訟が完了するまでの保護を与えた[32]。ジョンは妻ジャンヌとの離婚を望み、モードと同時に訴訟を起こそうとした。これは、結婚に同意した時点では二人が血縁関係にあるとは知らなかったと主張したためである。また、ジャンヌとの結婚契約を結んだ当時は未成年であり、強制されたとも述べた[33]。1316年2月24日、国王はジョンとモードに訴訟を起こす許可を与えた[34]。2つの訴訟の審理記録は残っていない。しかし、離婚は認められなかった。ジョンの場合、教会法では男性が血縁関係を理由に離婚訴訟を起こすことは禁じられていたため、この訴えはおそらく退けられた。モードの場合、彼女が主張した以前の契約については、契約書は発見されていなかった[35]。ジョンの場合、他にも明らかな問題点があった。ジョンとジャンヌは血縁関係にあったため、結婚時に教皇から特例が認められていた[20]。ジョンは19歳で、結婚同意年齢に達していた。そして、ジョンはプロポーズを受けた際に喜んで結婚を受け入れたと記録されている[18]。1320年までに、ジョンは「モード・ド・ネルフォードを心と交際関係から追い出した」[36]。